第2話
イザベラ・バードを訪ねてみないかと、マギーに誘われたとき、わたしはすぐに返事をしたわけではなかった。
マギーに劣らず、わたしもイザベラの著書を買い、むさぼるように読んでいたというのにだ。
特にわたしが目を皿のようにして読んだのは、日本を旅したくだりだった。
日本。
なんとエキゾティックで好奇心をそそる場所だろう。
イザベラの著書を読むまで、わたしもイギリスの大半の者たちと同じように、日本といえばフジヤマ・ゲイシャ程度の知識しかなかった。
日本は、極東にある不思議で奇妙な風俗を持つ国として、イギリスではおもしろおかしく紹介されていただけなのだ。
ところが、イザベラはどうだろう。
日本を見るイザベラの視線には、真摯なものが感じられた。
同じ人間が生きている場所として、文明人が感じたであろうことを、飾りのない言葉で綴っている。
不快なものは不快、美しいものは美しいと。
わたしが特に印象深く感じ、日本紀行を好きになったのは、日本の山の描写を、イザベラがこんなふうに書いていたからだ。
はるか遠くの白雪。
きっとそれは、フジヤマの頂にかかる雪のことにちがいない。
崇高な美しさをまとう、極東のフジヤマ。
それなのに、わたしは、マギーの誘いに即答できなかった。
その理由は、二つある。
わたしが伝統や慣習に囚われた古いタイプの女であることが一つ。
もう一つの理由は、マギーのように、イザベラの著書を読んでいることを表立って、たとえば医師をしている父やその夫に貞淑に仕える母や、おそらくそう遠くないうちに婚約をすることになるエドワードにも知らせていなかったからだ。
イザベラはヨークシャーの牧師の家に生まれた敬虔なキリスト教徒で、療養のために向かったアメリカの旅で旅の魅力に目覚め、アジアの各地を巡ることになった女性である。
イザベラが注目を集めたのは、女性の旅行家であったことと、前人未踏の地を旅したことにある。
そのために、イザベラは新しいタイプの女性として、家の中で古い慣習に埋もれて暮らす多くのイギリス女性の憧れとなった。
イザベラのいくつかの著書は批評家たちに賛美され、よく売れた。
そのおかげで、彼女は完全に世間的に認知された女性だった。
だが、そんな彼女を信奉することは、良家の女性には好ましくないと思われてもいた。
わたしの両親をはじめ、おそらくエドワードも、イザベラの著作をわたしが読んでいることを知ったら眉をひそめるにちがいない。
だから、わたしは、マギーのように、堂々と家の居間でイザベラの本を開くことはできなかった。
自分の部屋の本棚の奥にそっと忍ばせ、メイドのミミーがいなくなったときを見計らって本を取り出し、刺繍の続きをするふりをして頁をめくるしかなかった。
「ヘレナ、勇気を出して!」
わたしの逡巡を、マギーは励ましてくれた。
「あの人の話を直に聞けるなんて、わたしたちは幸運なのよ!」
実際マギーは運が良かった。イザベラは著書が売れていただけでなく、講演依頼も多い人気探検家だった。
最後の探検を終えてイギリスに戻って以来、話を聞きたがる者は後をたたなかった。
病を再発して療養生活に入ってからも、様々なツテをたどって、人々はイザベラに会いたがった。
普通なら、貿易商として成功したものの、ごく新興の家の出身でしかないマギーに、イザベラの話を直に聞くチャンスなど訪れなかっただろう。
マギーの家のメイドが、イザベラの古くからのメイドのブレアと親戚であることを知ったとき、マギーはメイドにお気に入りの房つきバッグをあげて、イザベラに会う段取りをつけた。
わたしたちが有名な女性探検家に会えたのは、イザベラが療養生活に入って、もうずいぶん時間がたっていることも幸いしたかもしれない。
イザベラが療養生活を送るうちに、世紀が変わった。
二十世紀になったのだ。
ああ、二十世紀。新しい時代。
イザベラがはじめてアジアの土を踏んだ頃――1870年代とは、何もかもが変わろうとしている。
何が変わろうとしているのか。
わたしは、それをはっきり理解することはできない。
だが、エディンバラの町を見渡すカールトンの丘に座り、髪を煽る風に吹かれるとき、何かを感じて身震いしてしまう。
風は勢いがあり、容赦がない。それでも、わたしは、この風を快く受け止めている。
この風は、わたしをどこか遠くへ運んでくれそうな気がするのだ。
まだ、見たことのないどこかへ。
わたしの両親や、そのまた両親が知ることのできなかった世界へ。
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