教室の外にある“教育”

灰谷 漸

教室

職員室の窓際に差し込む午後の光が、ホワイトボードに書かれた行事予定を、少し滲ませて見せていた。

「来週、家庭訪問」

その文字を眺めながら、僕は小さくため息をついた。


教師という仕事に就いて五年近くになる。

最初の数年は、授業準備や指導案に追われるだけで精一杯だったが、最近では、子どもたちの表情の微かな変化に気づく余裕が出てきた。

だが、それは同時に、気づかなくてもよかった「見えすぎるもの」への入り口にもなっていた。


たとえば、あの子。

無遅刻無欠席、提出物も完璧、学力も高い。

けれど三者面談のとき、母親は彼のことを「この子は家族の恥ですから」と言って、冷笑した。


――恥って、なんだろう。


言葉に詰まる彼の横顔に、僕はどう声をかければよかったのか、今でも答えが見つからない。


逆に、何もできない家庭で、愛だけを注がれている子もいる。

朝ごはんを食べる暇もなく登校し、体操服も買えない。けれど、教室のどこかではいつも笑顔を絶やさず、友達を気づかう優しさを持っている。

その子はある日、作文にこう書いた。


「家は狭くて古いけど、母さんの声がいつもあって、あたたかいです」


そう。

あたたかいか、あたたかくないか。

それが「家族」であるかどうかの、境目じゃないのか――そう思うようになった。


“普通の家庭”という言葉が、僕は昔から苦手だった。

それは大人たちの都合で定義されるもので、子どもたちはただその“型”に合わせることを強いられる。

ひとり親、再婚家庭、祖父母と同居、施設から通う子。

形式や構造はバラバラでも、そこに「自分の存在を肯定してくれる誰か」がいれば、それは確かに家族なのだと、僕は思う。


けれど、学校は時に「家庭の理想像」を無意識に押しつける。

欠席が続く子に、「親御さんに確認してください」と言い、

問題を起こした子には、「家庭でしっかり話し合ってください」と言う。


でも、もし、その家庭が、話し合いなど許されない空間だったら?

もし、家に帰ることそのものが苦痛だったら?


教師はそこまで想像して、初めて“教育”の入り口に立てるのではないか。


僕は最近、授業のはじめに「今日はどう?」と、黒板にチョークで書くようにしている。

その一言で、ほんの少しでも、生徒が自分の存在を意識してくれたら。

家庭では無視されても、学校では誰かが君を見ている、と伝えられたら。


ある日、昼休みに、ひとりの生徒がこっそりと話しかけてきた。

「先生って、家庭訪問とか苦手でしょ」

僕は驚いて、つい笑ってしまった。


「なんで?」と聞くと、その子は小さく笑った。


「先生の“普通”が、ちょっと変わってるから」


たしかに、そうかもしれない。

けれど僕は、それでいいと思った。


“普通”という仮面の下で、誰かが傷ついているなら、

その仮面をはがす役目を、教師が担うべきなんじゃないか。


家庭は、安心であってほしい。

けれど、そうじゃない家庭があることも、僕たちは知っておかなければならない。


「おかえり」と言ってくれる人がいない子に、

せめて「おはよう」と、ちゃんと笑って声をかけたい。


それが、僕にできる、ほんのささやかな“家族の代わり”なのだ。

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教室の外にある“教育” 灰谷 漸 @hi-kunmath

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