第4話「旧本館」
彼女とは、偶然出会った。
あの夜、渡り廊下で二人の関係を目撃して以来、俺の世界は静かに狂い始めていた。安室さんの何気ない一言が、江波さんの他愛ない笑顔が、すべて偽りに見え、俺の心を苛んだ。
食堂の壁に、新しいポスターが貼られていた。笑顔の若い男女社員が、輝く製品を手にしている、よくある社内向けの啓発ポスターだ。だが、そこに書かれたスローガンに、俺は足を止めた。
『あなたの献身的な犠牲が、会社の未来を創る。』
「犠牲」。その言葉が、鉛のように俺の胸に突き刺さった。俺が密かに抱えている、この敗北感や心の痛み。それすらも、この会社は「美徳」として差し出すことを要求しているのか。まるで、俺の心の中を見透かした上で、嘲笑っているかのようだった。底知れない不気味さに、背筋が凍る。
そんなある日の夜勤中のことだった。フロア全体がにわかに騒がしくなり、何らかのトラブルが発生したことを肌で感じていた。そんな中、安室さんが血相を変えて俺の元へ走ってきた。
「シンジ、ちょっと悪いんだけど頼み事があるんだ!」
「…はい。なんですか?」
安室さんは本気で慌てている様子だった。彼とまともに会話を交わすのは、あの夜、休憩室で会って以来のことだ。
「生産ラインでトラブルだ。旧本館の倉庫に使ってない工具があるから、取ってきてくれ!」
彼は一方的にまくし立てる。
「俺はトラブル対応と本部に報告があるから手が離せねえ。頼む!」
「あ、わかりました…旧本館…」
「今いる第二工場の北にあるボロいビルだよ。入り口入ったらすぐの棚に工具箱があるはずだ!」
あの夜の光景が焼き付いている相手に、普段通りに話しかけられる。その事実が、まるで俺たちの間にあった出来事など些細なことだと、格の違いを見せつけられているようで、腹の底がじりじりと焼けるような不快感があった。だが、リーダーからの業務命令だ。立場の弱い俺に、断る権利などあるはずもなかった。
ライン作業員が工場から出るには、通常は社員寮通路を通るしかない。各階にはトラックが入れるほどの大きなスロープがあり、その近くに階段に繋がる一般出入り口もあるが、殺菌ゲートが未設置のため、俺たちライン作業員の使用は固く禁じられている。ちなみに、この第二工場は1階が事務所と配送センター、俺の働く成形ラインも含まれる生産ラインが2階から5階、そして6階が原料管理室や品質管理室という構造だ。
俺は5階の社員寮通路のゲートを潜り、寮のエレベーターで一階に降りた。よく考えれば、工場の外に出るのは久しぶりかもしれない。社員寮には、工場と繋がる渡り廊下とは反対側に、テニスコートほどの大きさの中庭が設けられている。吹き抜けで6階まである奇妙な構造で、たまに休憩している社員の姿を見かけるが、誰もが同じような虚ろな目をしているように見えて、一度も利用したことはない。そもそも、この会社にいる人間は、ほとんどが敷地内の社員寮に住んでいる。仕事も、生活も、全てがこの会社の敷地内で完結しているのだ。外の世界との接点は、日に日に薄れていくようだった。
社員寮の出入り口で、ICタグが内蔵されたリストバンドを認証パネルにかざして外へ出る。これがないと、他の建物に入ることも、工場敷地のゲートを開けることも出来ない。徹底された管理体制に多少の不愉快さを感じながら、俺は旧本館へと向かった。
リストバンドをセンサーに当て、旧本館へと入る。完璧に殺菌された工場とは違い、むっとするような埃っぽい空気が鼻をついた。指定された工具箱はすぐに見つかった。だが、事務所だったと思しき部屋のドアが少しだけ開いているのが目に入り、俺は吸寄せられるように中を覗いた。
そこは、時間が止まった場所だった。壁には、心から笑っている昔の社員たちの集合写真。テーブルには「家族」という言葉が温かい意味で使われている、楽しげな社内報が散らばっている。この会社が、かつては「真っ当な」場所だったことを示す残骸の数々。
工具箱を持ち、事務所を出ようとした、その時だった。
倉庫と化した事務所の奥、石膏ボードの壁面に、事務員用の勤怠カードホルダーが虚しく設置されているのが見えた。そして、そのすぐ横。**【社長室】**と表記された古びたスチールドアの下の隙間から、ぼんやりと光が漏れ出ていた。
こんな場所に、誰かいるのか?
俺は工具箱を静かに床に置き、息を殺してドアに近づく。すると中から、微かに声が聞こえてきた。男の威圧的な声と、少女のか細い声。俺は、錆びたドアノブにそっと手をかけた。
(SYSTEM LOG: 2025/10/18 22:45:15)
EVENT: Unscheduled entry into Sector 4 (Old Main Building) by Subject 7734.
CAUSE: Coincidental directive from Subject 5512 (AMURO, S.) due to production line malfunction.
OPPORTUNITY DETECTED:
- Subject is currently in a state of heightened emotional distress and suspicion.
- Proximity to secondary 'educational' scenario is optimal.
ACTION:
- Activating environmental audio cues (low-frequency resonance) to enhance subject's sense of unease and guide him towards designated target area (President's Office).
- System is adapting to this unexpected variable to accelerate Phase 3.
(SYSTEM STATUS: ADAPTIVE ENGAGEMENT ACTIVE)
次の更新予定
毎週 金曜日 20:00 予定は変更される可能性があります
Injection @SaigaIbuki
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