第3話「福利厚生と作為の夜」

その知らせは、何の前触れもなく、テレビから一方的に流れてきた。


『家族の皆さんへお知らせです。来たる9月5日、年に一度の定期健康診断を実施します。皆さんの健康は、会社の宝です。全員、必ず受診してください』


食堂の壁にも、同じ内容のポスターが貼り出されている。


福利厚生の充実ぶりをアピールするような、明るいデザインだ。


これといった体の不調もない俺には、ただ面倒なイベントが一つ増えたくらいの認識だった。


「健康診断か。まあ、タダでやってもらえるんだから、いいんじゃねえの」


昼休み、安室さんは日替わり定食をかき込みながら、あっけらかんと言った。


「毎年やってんすか?」


「おう。身長体重とか測って、最後に注射一本打たれて終わり。インフルエンザとかの予防接種らしいけどな。ちょっとチクっとするが、まあそんなもんよ」


安室さんの気楽な口調に、俺もそんなものかと納得する。


この会社では、すべてが決められている。従業員は、ただそれに従えばいい。


そのことに、俺はすっかり慣れてしまっていた。


健康診断の当日、俺たちは順番に、工場の奥にある医務エリアへと案内された。


普段は閉鎖されているその区画は、工場の他の場所とは不釣り合いなほどに清潔で、最新の医療機器らしきものが並んでいる。


「次、須藤シンジさん」


呼ばれて中に入ると、白衣を着た無表情な男が待っていた。


身長、体重、視力、聴力。


手続きは事務的に進んでいく。特に異常はない。


「はい、じゃあ最後にワクチンを打ちますので、腕を出してください」


男が、あらかじめ用意されていた注射器を手に取る。


「これは、インフルエンザと数種類の感染症に効果がある、最新の混合ワクチンです。栄養補助剤も入っていますからね」


その説明に、特に疑問は抱かなかった。


むしろ、手厚いケアに少しだけ有り難みすら感じていた。俺が腕を出すと、看護師が慣れた手つきでアルコール消毒をする。



ふと入り口を見ると、順番を待っている江波さんと目があった。


彼女は、心配するような、それでいて、どこか寂しそうな不思議な顔で俺を見つめ、小さく頷いた。その表情の意味を、俺は読み取れない。


チクリ、と鋭い痛みが腕に走る。


液体が、体内に注入されていく。


その瞬間、俺は腕の血管に、一瞬だけ、氷のように冷たい何かが広がるのを感じた。


気のせいか、一瞬だけ目眩がしたような気もする。


「はい、終わりましたよ。お疲れ様でした」


だが、その奇妙な感覚はすぐに消え、後に残ったのは注射特有の鈍い痛みだけだった。


俺は何事もなかったかのように立ち上がり、医務室を後にした。


(SYSTEM LOG: 2025/09/05 14:34:01)

SUBJECT_ID: 7734 (SUDO, Shinji)

EVENT: Annual Health Screening / Substance Administration.

ASSESSMENT:

- Subject is now fully prepared for Phase 3 execution.

- Awaiting command.

(SYSTEM STATUS: STANDBY)


copy

***


それから数週間、平穏な日々が続いた。


その夜も、俺は疲労と共にベッドに沈み、深い眠りに落ちたはずだった。


パチリ、と。


まるでスイッチが入ったかのように、俺の意識は暗闇の中で覚醒した。


物音一つしない。


時計の赤いデジタル表示が、午前2時17分を告げている。


なぜ起きたのか分からない。


だが、喉がカラカラに乾いていた。


たまらず身体を起こし、部屋を出る。


各階の渡り廊下の前には、小さな休憩室があり、そこに自販機が設置されている。


休憩室の入り口に差し掛かった時だった。

漏れ聞こえる、話し声に、俺はとっさに足を止めた。


休憩室の明かりに照らされた渡り廊下に、二つの人影が見えた。 安室さんと、江波さんだった。


そして、二人の唇が、ゆっくりと重なるのが見えた。


時間が、止まった。


頭の中で、何かが砕け散る音がした。


思考が真っ白になり、どうすればいいのか、何も分からない。


俺の足は、まるで自分のものではないかのように、ふらふらと休憩室へと進んだ。


そうだ、俺は飲み物を買いに来たんだった。


そのことだけが、真っ白な頭の中に浮かんでいた。


ポケットの小銭を探り、自販機に投入する。商品ボタンを押す。機械が唸り、ゴトン、と重い音を立てて、麦茶のペットボトルが取り出し口に落ちた。


静寂の中で、その音は、やけに大きく響いた。


ハッとしたように、渡り廊下の人影が離れる。まずい、と思った時にはもう遅かった。


「…ん? 誰かいるのか」


休憩室の入り口に、ひょこっと安室さんが顔を出した。俺の姿を認めると、彼は特に驚いた様子もなく、普通に話しかけてきた。


「お、須藤か。どうした、こんな時間に」


「…喉が、渇いて」


俺は、取り出したばかりの冷たいペットボトルを握りしめながら、かろうじてそれだけを答えた。


安室さんは俺と、俺が買った麦茶を交互に見て、納得したように頷いた。



「そっか。まあ、夜中に喉渇くよな。あんま夜更かしすんなよ?じゃあな」


彼は、まるで何もなかったかのように、いつも通りの、気のいい上司の顔で、軽く手を振って自分の部屋の方向へと去っていった。


言い訳も、照れ隠しもない。


彼の態度には、ミホとの関係を俺に見られたことに対する動揺が、一切なかった。


彼は、俺が気づいていることに気づいていない、というより、そもそも俺が気づいたところで、何の問題もないと思っているのだ。

俺という存在が、彼の恋愛において、全くの無関係で、無価値で、取るに足らない存在だと、その態度が雄弁に物語っていた。


その無関心さが、何よりも俺の心を抉った。


一人残された休憩室。


握りしめたペットボトルは、心臓の冷たさとは対照的に、ぬるくなっていくようだった。

平穏だったはずの世界に、初めて突き刺さった、冷たくて鋭い、現実の棘。 俺はただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

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