第2話「無色の平穏と視線の先」
ユートピア・フーズでの生活が始まってから、一ヶ月が経っていた。
あれほど俺を苛んでいた社会への怒りや、他人への苛立ちは、綺麗に消え失せていた。
まるで、最初からそんな感情など持っていなかったかのように。
朝はタイマーでテレビがつき、工場へ向かう。
B2成型ラインでの作業は、単調だが苦ではなかった。
ただ無心で手を動かし、一日を終え、寮に帰って眠る。
それは、驚くほどに平穏な日々だった。
溶かされた樹脂が金型に流し込まれ、冷却され、コンベアで運ばれていく。同じことの繰り返し。その無為な時間の中で、ふと顔を上げた。
視線が、合った。
十メートルほど先にある梱包ライン。
そこで作業していた江波さんと、偶然、目が合ったのだ。
彼女は小さく微笑んだように見えた。俺は心臓が跳ねるのを感じ、慌てて視線を手元に戻す。
最近、ラインの配置が変わり、彼女の作業場がちょうど視界に入る位置になった。
だから、これは仕方のないことだ。そう自分に言い聞かせた。
それでも、数分もすれば、また無意識に彼女の姿を目で追ってしまう。
なぜそうしてしまうのか、俺自身にもよく分からなかった。
昼休み。社員食堂は無料で、栄養バランスが完璧だと評判だった。
今日のA定食は豚の生姜焼きだ。
一人、席について箸をつけようとしたところで、彼女は当たり前のように俺の向かいにやってきた。
「須藤くん、おつかれ。そのライン、もう慣れた?」
「…江波さん。まあ、なんとか」
「そっか、良かった。何かあったら言ってね」
彼女はいつも俺に話しかけてくれる。
他の人間は、俺のことなど意にも介していないというのに。
そのことが、少しだけ、くすぐったかった。
寮の部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
今日も一日、何もなかった。誰とも揉めなかったし、何かに腹を立てることもなかった。
それは、空っぽで、色のない、完璧な平穏だった。
目を閉じると、脳裏にふと、食堂で笑っていた江波さんの顔が浮かぶ。
その像もやがて曖昧になり、俺の意識は深い眠りの中へと沈んでいった。
[SYSTEM LOG: 2025/08/21 22:15:04]
SUBJECT_ID: 7734 (SUDO, Shinji)
LOCATION: DORMITORY ROOM 505
BIOMETRIC ANALYSIS:
- Subject has entered Stage N3 sleep (deep sleep).
- Daily Cortisol Levels: -28% (Below Baseline)
- Serotonin Levels: +15% (Stabilized)
BEHAVIORAL INFERENCE (SUMMARY):
- Visual fixation on Subject_ID: 6885 (EBA, Miho) recorded 19 times.
- Minimal but consistent dopamine fluctuations correlated with contact with Subject 6885.
- Conclusion: Emotional dependency pathway is forming as projected. Subject is unaware of his own cognitive shift.
ASSESSMENT:
- Phase 2: Proceeding nominally.
[LOG DATA ARCHIVED. END OF DAY CYCLE.]
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