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歩みを進めるに連れて、溢れる毒気に歪んだ香りが薄れてゆく。銀髪の半妖は重たい身体を引き摺りながらも、ようやく安全な場所まで逃れることに成功した。しかし、決して無傷で済むことはなかった。
実に容易く窺えるのは、体力の消耗のみに留まらない。至るところに見え隠れしているのは、猛毒に蝕まれてしまった兆候。瞳の焦点は定まらず、崩れ解けたショールの隙間からは、土気色に褪せた素肌が覗き見えた。力失った弱々しい足元は、今にも崩れ落ちそうになっていた。
毒気溢れる薬草の採集は、本来なら必要のない仕事だ。かつては麓の街の近隣で、類する無毒な薬草が栽培されていたのだ。そのために、わざわざ山で毒に塗れる必要もなく、充分な収穫に恵まれるはずだった。しかし、今ではとある事情によって、栽培ができなくなっていた。そうだとしても、この薬草から得られる成分は、薬仕立てに欠かせない。たとえ危険を冒してでも、人知れずに毒気溢れる薬草を採集せざるをえない。
銀髪の半妖がこの山を任された理由は、妖精の血筋を受けた恩恵にある。植物毒に対する耐性は、人間には備わることなき能力だといえる。山の至るところには、他にも多種多様な毒を宿した植物が溢ている。怪しげな歩行樹やら、禍々しい毒キノコ、そして、悍ましいまでに毒性の強い薬草の数々。揚げ句の果てには、獰猛な野生動物だって数少なくも存在する。
数多の脅威が宿る土地を、無理矢理に押し付けられた……そんな風に思っていた時期もあった。かつては貧乏くじを引いたものだと、酷く嘆いたものだった。しかし、他の収穫地もまた、それなりに厳しい環境ばかりなのだ。決して銀髪の半妖だけが、苦しい思いをしているわけではない。数少なき他の薬師たちもまた、苦労に苦労を重ねた上で、様々な薬草の収穫に勤しんでいる。
それに、この山で過ごす日々には、少なからずの愛着があった。何者にも侵害されることなく、上質な孤独を確保できる環境は、何よりもありがたい恩恵だ。春を迎えたこともあり、またしても山で独り過す時間を確保できる。確かな事実を噛み締めると、微かな安らぎに包まれる。
僅かばかりの緊張感が抜けた理由は、毒の源から離れたことも影響しているだろう。そうだとしても、自然に解毒されることはない。獣道を抜けて行く最中には、いよいよ限界が訪れた。銀髪の半妖は酷い眩暈と頭痛に耐えかねて、ぐったりと大地にへたり込んだ。もうこれ以上歩くことができないほどに、酷く消耗しきっていた。せめてもう少し、耐毒性に恵まれた体質なら良かったのに……と呪詛を零しながらも、腰に携えた小さな鞄に手を伸ばす。
苦悶に揺さぶられつつも、目当てのものを探り出す。解けたショールをかなぐり捨ててながらも、縋るように手にしたものは、小さな包みと年季の入った煙管。包みの中に収められているのは、頼みの綱の解毒剤。
この薬もまた、ある種の薬草。実に多様な力を有するが故に、薬として利用されるのみならず、多岐に渡る分野で活用される逸品だ。麓の街では、古来から生活を支えた神聖な植物として、崇め大切にされているほどだった。
部位によって役割は違えど、貴重な薬として活用されるのは、潤沢な蜜を宿した花穂。その凄まじい効果は、多様な病への抵抗に対する絶大な力を発揮してくれる。もちろん解毒に対しても、極めて高い効果を誇ることは有名だ。即時的な効果を得るためには、燻煙の吸引が適切だと定義づけられている。だからこそ、こうして山中で毒に蝕まれた場合には、煙治療に当たることが最適なのだ。
丁寧に粉砕された花穂を、煙管の火皿に詰めてゆく。力失った手元が震えると、指先に粘度豊かな蜜液が付着した。ぺろりと蜜を舐取ると、青々とした香りが鼻から抜けてゆく。その感覚だけで、僅かに苦しみが薄れてゆくように感じらた。きっと充分な効果を享受できるだろう……と確信しながらも、銀髪の半妖は色褪せた唇に煙管を添え当てた。そして、そっと小さな火を灯して、ゆっくりと深く燻煙を吸い込んだ。燻し焦がした滑らかな蜜香が、しっとりと口腔に染み渡る。瞼を閉じて香り高き芳香を堪能すると、濃厚な煙をゆったりと吐き落とす。
爽やかな微風が吹き込むと、漂う煙は雲のように舞い上がる。そして、虚空彼方へと流れ去っていった。鼻から香りが抜けてゆくと、徐々に効果が現れる。まず最初に訪れたのは、頭を締め付けていた不快感が緩み溶け落ちる感覚。香煙を摂取するたびに、尖り強ばった心が円やかに解れてゆく。深く呼吸を続けるに連れて、目眩や頭痛までもがやんわりと薄れていった。
解毒が進んだことを示すのは、意識を包み込むような柔らかな揺らぎ。鼻腔を擽る残り香が、花蜜が残した安らぎが広がっていった。穏やかな解放感が押し寄せると、脳裏に朧げな幻影が脳裏に展開されてゆく。不意に意識を擽ったのは、昨夜に夢見た不思議な風景だった。
夢の残滓を手繰り寄せながらも煙治療を続けると、火皿に詰められた花穂が静かに燃え尽きた。ゆったりと呼吸を整えながらも、晴れゆく毒の暗雲を遠く彼方へと見送ると、微かな気力が取り戻されてゆく。
完全に毒が抜けきるまでには、もう少し時間がかかるだろう。それでも、歩ける程度に回復したようだ。銀髪の半妖はゆっくりと立ち上がり、身体の状態を確かめた。僅かにふらつきはするものの、酷い眩暈は完全に消えていた。一歩二歩と足を踏み込んで、確かな手応えを感じると、下山を再開することにした。軽やかな揺らぎに包まれて、穏やかな心持ちで山を降りてゆく。次第に斜面はなだらかになってゆき、長く続いた山道は終端へと到達する。
気が付くと、周囲は平坦な森に覆われていた。山奥の樹海とは異なって、麓の森は爽やかな解放感に満たされていた。鳥の囀りが響き渡り、せせらぎの囁きが立ちこめる領域は、まさに平和そのものだ。憩いの場としても名高い森を抜けると、整備されれた街道に辿り着く。その先へと進むと、旅路の終着点である街へと到達する。
名残惜しさを感じつつも、森に別れを告げて街道に足を踏み入れる。道なりに歩みを続けると、行く手に奇妙な建物が見えてくる。それは、ある種の境界を意味する水車小屋。周期的に刻まれる打撃と、巡り流れる水の音が、近付くに連れて鮮明になってゆく。心地よき律動に引き込まれるようにして、銀髪の半妖は水車小屋へと向かった。
ここは、旅路の最後に残された憩いの場でもある。欠かすことのできな休憩は、ある種の気休めとも、大切な儀式的行為ともいえるだろう。銀髪の半妖は疲弊した体を休めるように、川縁にゆったりと腰を下ろした。水車の奏でる音色に耳を傾けながらも、流れる水を掌で掬い上げる。ききりと冷たい感覚に震えつつも、ゆっくりと喉を潤す。すると、とろりと疲れが抜け落ち、微かに残る頭痛や気怠さまでもが、下流に流れ去るように消えてゆく。
清らかな水の囁きに擽られて、南の方角に視線が向けられた。遠く彼方に見えるのは、街道の終端に待ち受ける街の外壁。不意に思い出すことは、その先に待ち受ける歪んだ世界。もう少しだけ、この場に居たかった。それでも、下山の最中に採取した薬草を、いち早く処理しなくてはならない。せっかくの成果が朽ちてしまう前に、街の根城に戻る必要があるのだった。
曇り歪んだ表情を、流れる髪に隠しながらも、意を決して立ち上がる。後ろ髪を引かれる思いを感じつつも、銀髪の半妖は水車小屋に別れを告げた。深く俯きながらも歩き去ってゆく姿は、荷物に押し潰されてしまいそうなほどに弱々しかった。
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