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 数多の不思議な音粒が、雫と化して水面に降り落ちてゆく。小さな波紋が生じると、延々と尾を引く持続音を響かせるかのごとく、際限なき拡大を遂げてゆく。湖に描かれた鏡像は、甘く奇妙な幻惑に見舞われて、歪み崩れようとしていた。摩訶不思議な侵食を受けたのは、表層の風景のみではなかった。彼方までもを貫く振動は、全てを余すことなく包み込み、どこまでも深くへと染み渡っていった。


 ゆったりとした時が流れる湖底風景は、気怠い昼寝の一幕に染まっていた。あらゆる者が静かな眠りに耽りつつ、穏やかな共通の夢に揺れている。動きを止めた大魚––––静かな気泡を紡ぐ貝––––岩陰に潜む甲殻類––––。湖底に宿る面々は、安心しきった様子で眠っていた。


 静まり返った湖底に唯一の律動をもたらすのは、虚ろげに流れる海月の群れ。ふよりふよりと夢の奥底を揺蕩うかのごとく、流れのままに揺れている。一際大きな半透明の傘の上には、奇妙な影が覗き見えた。大切な宝物のように運ばれてるのは、黒き不思議な眠り姫––––優雅な昼寝に耽る人魚だった。


 心地良さそうに柔らかな傘に身を預け、ゆったりと穏やかな夢の世界に浸っている。何かを口遊むかのように、穏やかな寝息が零れると、こぽこぽと小さな気泡が立ち昇る。人魚は安寧に満ちた湖底に溶け込みながらも、不思議な夢に揺れていた。


 内側から溢れる思いを抱き締めて、念を通じて思うがままに解き放つ。あらゆる制限を解除して、心を震わせる歌を紡ぎ響かせる。その行為は、ありきたりの日常と何も変わらぬ行為だが、たったひとつだけ異なることがある。それは、自ら音を紡いで、美しき旋律を奏でること。言葉を発することのできない人魚には、本来なら不可能な行為だといえるだろう。しかし、現実を超えた夢の内側の領域には、あらゆる制限が存在しない。そのために、本来持ち得る可能性、そして願い求める真の力が遺憾なく発揮されていた。


 人魚はただひたすらに、思うがままに歌を紡ぎ続けていた。滲み漂う音粒は、波へと姿を変えてゆき、どこまでも彼方へと流れ漂い散ってゆく。いつしか人魚を中心に、不思議な波紋が広がっていた。水も大気も分け隔てなく震わせる振動は、周囲一帯を金色に染めてゆく。自らが奏でた音を通じて、全てを包み込むように慈しみ、光を通じて惜しみなき力を分け与える。あまりにも神々しい在り方は、夢の最奥に待ち受ける女神とも、どことなく似ていた。

 

 夢の奥底で紡がれた歌は、ほんの微かではあるものの、現実にも侵食しようとしていた。虚ろげな念の残滓を響かせるのは、虚ろげに零れ落ちてゆく寝言のような吐息。微弱な振動が行き渡ると、微風のように柔らかな対流が生み出される。そして、湖底一帯を丁寧に包み込むように、滑らかな揺らぎが行き渡る。穏やかな眠りに耽る者たちは、揺り籠のような細波に包まれて、更に奥深き夢の彼方へと沈み落ちていった。


 意識と無意識の境界を彷徨いながらも、人魚は波紋の中心で眠り続けていた。どちらにも属すことなき中間地点の滞在は、そう長くは続かない。徐々に均衡が崩れゆき、夢の世界から遠ざかる。そして、現実へと揺り戻そうとする細波に、静かに飲まれて流される。そしと、薄れ消えゆく夢の世界に見送られながらも、崩れた意識が結い直されてゆく。


 美しき夢の風景は、色褪せるように失われてしまった。人魚は歯痒い思いに揺られつつも、虚ろげに目を覚ました。重たい瞼を持ち上げると、先の世界とは全く異なった風景が現れた。もちろんそれは、見馴れた現実そのものだった。虚ろげな溜息が溢れると、もの悲しげに肩が落ちてゆく。海月の揺籠に揺られつつも、微かな希望に縋り付き、夢に見た光景を手繰り寄せようと試みる。僅かな欠片を捉えたかと思ったら、全てが跡形もなく崩れ落ち、遥か彼方へと消えてしまう。どっぷりと零れ落ちた溜息が、大きな気泡を生み出すと、消えゆく夢とともに散ってゆく。


 名残惜さに震えながらも、人魚は甘美な妄想に浸り込もうと瞑目した。そっと意識を沈めると、内側深くから奇妙な揺らぎが押し寄せてきた。心を擽る振動の正体は、思い巡らせる必要もなく理解できる。それは、夢の中で奏でた旋律の残響。


 あの時を感覚を、もう一度……と願いを込めて祈り立て、散りゆく音の欠片に縋り付く。願い求めた願望は、虚しくも叶うことはない。今回もまた、いつもと何も変わらぬように、淡く滲んだ夢の忘れ形見は忘却の彼方に散ってゆく。


 そっと瞼を持ち上げると、儚き夢想はもうお終い。吐息混じりに溜息が零れると、意識は現実に揺り戻る。諦めの滲む後味を噛み締めながらも、元の世界に移調しようとした瞬間のことだった。突如として不思議な感覚が、波打つように押し寄せてきた。


 強く意識を揺さぶるほど違和感に晒されて、人魚は我を失い茫然と硬直した。その感覚は、今まで感じたことのない摩訶不思議な体験。どこからともなく伝わるのは、夢の奥底で紡ぎ奏でた音像そのものだった。錯覚じみた微細な感覚ではあるものの、微かに水を震わせる質感は、決してまやかしではなかった。


 人魚は強い困惑に震えながらも、大きく瞼を見開いた。怪訝な思いが溢れ出すと、平静を保ち続けることはできなかった。じわりじわりと滲み伝わる残響が、手心を加えることなく心を刺激し続けた。何かに急き立てられるかのごとく、自然と身体に火が灯る。人魚は取り乱し気味にあくせくと、海月の傘を後にした。


 流れ泳いで向かった先は、湖底の中心たる静寂に包まれた一角。その中心に鎮座する滑らかな岩肌に、そっと腰を降ろして心の落ち着きを取り戻す。人魚は瞑想に耽るかのごとく、神妙に瞼を落とした。内へと意識を傾けて、滲み漂う振動に心を共振させるべく、封じていた回路に息吹を与える。内に備えた魔力が凝縮されてゆくと、澄み渡る黒紫の結晶が生み出され、神秘溢れる術の礎が築かれた。そして、念を通じて生成された一滴の雫が、心奥底に秘匿された領域を目指して滴り落ちてゆく。内的な儀式的行為は、人智を超えた秘術の展開に至るまでの手続き。これは、決して誰かに教えてもらったわけではない。本能的に為すことのできる一連の流れは、種族的特性とも云える形で享受した感覚だった。


 心奥底に滴り落ちた一滴の雫が、最奥に宿る水鏡を震わせた。突如として生み出された水飾りの王冠が、途端に崩れ散っては波紋に姿を変えてゆく。最深部に炸裂した衝撃が、精神と肉体の境界を貫いて、全てを余すことなく震わせた。


 奇妙な揺らぎが湖底を埋め尽くすと、いつの間にか湖全体へと行き渡る。人魚を起点に放たれた念の波紋は、不思議な音像を探るべく、どこまでも拡大を続けていった。際限なく探索範囲を広げるかのごとく、易々と水面の境界を貫いて、大気までもを震わせた。人魚は不可視の波紋に意識を傾けて、静かに返答を待ち続けた。微弱な揺らぎさえも見逃さないように、ただ黙々と波打つ水の感覚に没頭する。少しばかり時を経て、真摯な探索が報われたことを示すように、微弱な揺らぎが届け返された。


 確かに受け取ることのできた感覚は、岸辺を起点に放たれた振動。奇妙な揺らぎの正体は、湖畔には存在しないはずの音像を予感させた。唐突に訪れた嵐の咆哮でもなければ、迷い込んだ鳥の囀りとも違う。強烈な違和感を及ぼす振動は、なんとも優しくありながらも、全てを拒絶するほどの静閑な色を帯びていた。


 好奇と恐怖が入り混じる衝動に、人魚は抵抗さえもできなかった。心揺さぶる徒波によって、内なる均衡に乱れが生じると、水の秘術は制御を失い暴れ出した。意識までもを激しく揺さぶられると、平静を保ち続けることは難しい。酷い混乱に陥りそうになりつつも、微かな違和感に縋り付き、正気を取り戻そうと試みる。


 明らかなことは一つだけ。地上で何らかの異変が起きている。その事実を理解すると、拮抗する二つの思いに襲われる。違和感の正体を求める衝動と、恐怖に縛り付けられた弱き思い。人魚は強い不安に揺さぶられつつも、心が求める選択肢を選び取った。そして、意を決するように水を薙ぐと、音の源を求めて湖底を後にした。


 空の彼方に帰りゆく天使のごとく在り方で、人魚は真っ直ぐに浮上していった。行く先へと導くように、柱と化した光が天から届けられていた。内に紡ぎ奏でた音が、外側から届けられたこと。それは、今まで一度たりとも経験したことのない感覚だった。未だに夢の奥底にいるのだろうか……それとも、本当に異変が起きているというのか……。溢れる疑念が押し寄せると、ついつい胸が苦しくなってしまう。あまりに激しい衝動に襲われて、強く噎せ返りそうになった瞬間に、ひとつの可能性を刺激するかのように、突如たる閃きが灯される。


 ––もしかして、女神様が……


 人魚は一抹の期待を抱きつつ、心を震わせるように独白した。すると、暴れ波立つ感情が落ち着きを取り戻し、強い不安や恐怖さえもが薄れ消えていった。緊張に強ばった表情さえもが綻ぶと、柔らかに口角が持ち上がる。気が付くと、内から溢れる歓喜の念が、全てを包み込もうとしていた。


 夢の最奥で待ち受ける大切な存在が、現実の世界に訪れた……。人魚は溢れる期待を胸に抱き締めた。すると、湖を沸騰させてしまいそうな熱感が、心奥底から滲み出してきた。伝えたいことは沢山あるし、聞きたいことも多くある。女神様に会って、同じ時を過ごしたい……。人魚は心激しく震わせながらも、湖を貫くように泳ぎ昇っていった。

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