7

 とぷん、と水飛沫が弾けると、黒き不思議な花弁が舞い上がる。一輪の花を思わせる象徴が、突如として水面に咲き誇ると、散りゆく水煙に秘匿された姿が露にされてゆく。長い髪は花弁のように水面に流れ落ち、謎めいた影のように揺れていた。黒に潤う影の隙間からは、きらりと輝く黒紫色の光が二つほど、もの言いたげに瞬いていた。流れ漂う黒髪と、二つの不思議な煌めき––––その正体は、水面に突き抜けたばかりの人魚。普段見せる開放的な印象は大きく影を潜めており、強い緊張に震える様子が窺える。恐怖と好奇の入り混じる瞳は、何かを探し求めるかのように、あちらこちらに揺れていた。


 どこかしらから確かな違和感が滲み出してはいるものの、未だにその出所は分からない。強い緊張と焦燥に駆られているらしく、人魚は身動きもできずに震えていた。やがて、いても立ってもいられなくなったのか、水に流されるように動き始めていった。


 慎重に身を隠しながらも、音を立てずに恐る恐ると流れ泳いでゆく。真っ直ぐに目指す先は、お気に入りの場所とも言える岩山。湖の中心たる位置にならば、不思議な感覚の源を探るにうってつだろう……。そう思いはするものの、いつもように岩肌に乗り上がる気にはなれなかった。ひっそりと岩陰に身を隠して、ぎゅっと不安そうにもたれ掛かると、苦しげな溜息が零れ落ちてゆく。高鳴る鼓動を抑えることもできずに、悪戯に波紋が広がると、平静を保つことさえもできなかった。


 焦り怯える人魚を落ち着かせようと、柔らかな微風が吹き込んだ。届けられた香りが髪に馴染み溶けてゆくと、ほんの少しだけ円やかな感覚に包まれる。香りを通じて寄り添う花々や、便り届けてくれる微風の思いが心に染み渡る。それらを確かに受け取ると、人魚は決して独りではないことを理解した。皆々に対する感謝を胸に抱き締めて、祈り捧げるように瞑目する。


 甘い香りに酔いしれつつも、人魚は慎重に周囲を見渡した。視界に映る風景は、普段と何も変わらない。そうだとしても、どこからともなく届けられた不思議な振動は、途絶えることなく続いていた。意識を内に傾けて、不可視の雫を作り出す。心奥底に宿る水鏡を目指して落下する煌めきが、水飾りの王冠を生み出した。瞬時に音もなく砕け散ると、静かなる波紋へと姿を変えてゆく。流れ広がる細波が、内側の境界を超えてゆくと、外界に滲み溶けては際限なき拡大を遂げていった。念の波紋が湖畔一帯を包み込むと、ようやく違和感の根源たる一点が、明らかにされた。

 

 人魚は心揺さぶる幻影を辿るようにして、そっと瞼を持ち上げた。露にされた瞳には、異質な振源たる一点が映し出されていた。それは、東岸の高台に鎮座する不思議な岩––––石造りの東屋。


 小丘が広がる陸地には、人魚は足を踏み入れたことがなかった。そして、東屋が人為的に造られた建造物であることも知らなかった。高台の頂点に鎮座する不思議な形状の岩……という認識が、人魚にとっての東屋だった。そして、その奇妙な岩の内側には、見たこともない不思議な影が揺れていた。小鳥たちでもなければ、花々を始めとした植物とも違う。もちろん湖に住まう水棲でもなかった。見たこともない存在が東屋にいて、とても不思議な音を発している。ただそれだけのことが、確かに理解できるのだった。


 抗うことのできない魅力溢れる旋律は、東屋から放たれている。不思議な形状の岩が鳴動しているのかと思いきや、そうではないらしい。音を生み出しているのは、素性さえも分からない影の仕業。その不思議な姿を前にすると、瞬きはおろか、意識を反らすことさえもできなかった。初めて目にする存在に、人魚は不安と恐怖を覚えつつも、やがては希望にも似た結論へと到達した。


 ––やっぱり、女神様なのね……


 心を震わせる独白が、意識を強く揺さぶった。石のように硬直していた身体は、いつの間にか動き出していた。美しき音像を汚すことなきように、音を立てることもなく東岸に向かい泳ぎ近いてゆく。


 岸辺付近の岩に身を隠しながらも、人魚はまじまじと高台に聳える東屋を凝視した。とくん、と強く鼓動が拍打つと、小さな波紋が水面に揺らぎを響かせる。瞳までもが震えると、絞り定めようとする焦点が、悪戯に暈されてしまう。光の加減が味方して、影の素性が白日の元に晒される。一際強い心音が、容赦なきまでに胸を貫いた。


 光照らされた存在は、夢の最奥に現れる女神様……とは少しばかり違っていた。そうとは言えども、どことなく似通った印象を感じることができる。夢の奥底の領域から現れたような雰囲気––––理解の範疇を超えた不思議な旋律の侵食––––神々しくも禍々しい面影を見せる佇まい––––。あまりにも異質な存在感が押し寄せると、狂おしいまでに強く心が震え立つ。今この瞬間に、人魚は初めて外界の存在を感知した。


 強烈な感覚が波打つように押し寄せると、途端に意識を鷲掴みにされてしまう。人魚は金縛りに捕われたかのように、一切の身動もできずに硬直してしまった。瞬きさえも忘れた瞳は、不思議な存在の虜にされていた。どことなく悲しげな表情が覗き見えるものの、その多くは悩ましきヴェールによって秘匿されている。


 流れ吹き込む微風が、影に溶け込む銀の揺らぎを撫で付けた。更なる追い討ちをかけるように、天から光が差し込むと、銀色に染まる髪が照らされる。徐々に暴き出される雰囲気は、やはり夢の最奥に現れる女神と似ていた。それでも何故か少しだけ、全く異なった印象を帯びている。孤独に咲き誇る一輪の花のような儚さと、あらゆる接触を拒むような危うさが、独特の雰囲気を醸し出していた。


 ふわりと微風が吹き込むと、特徴的な彩りの髪が舞い上がる。ほんの一瞬だけではあるものの、覆い隠された表情が露にされてゆく。人魚はその瞬間を、決して見逃すことはなかった。暴き出された顔立ちは、さり気なくも女神様と似通っていた。完全に一致するというわけではないものの、強い関連性を感じることができる。そのことを理解した瞬間に、華奢な身体を破壊してしまうほどの、強過ぎる鼓動が轟いた。


 胸の痛みに狼狽えつつも、人魚は岩陰に身を隠して、まじまじと東屋を見つめていた。尽きることなく溢れる謎が、心を悪戯に刺激する。数多の疑念が結い合わされてゆくと、やがてたった一つの疑問へと、全てが集約されてゆく。


 ––どのようにして、この美しき旋律を発しているの……


 人魚は心を震わせる謎を抱き締めて、祈り捧げるように東屋を仰ぎ見た。茫然と震えながらも、波打つ音に恍惚と蕩けていると、次なる欲が心を刺激し始めていた。もっと近くで見つめたい……との願いを抱くものの、予期せぬ妨害に見舞われる。不思議な旋律に蝕まれた肉体は、いつの間にか石のように硬直していた。尾鰭を薙ぐことはおろか、胸元で組み合わせた掌を解くことさえままならない。華奢な身体は小刻みに震えるばかりで、身動きができる状態ではなかった。人魚ができることはただ一つだけ。ひとり慎ましく神妙な趣で、岩陰に身を隠すことだけだった。


 波打つ不思議な音粒の数々が、ぎゅっと心を鷲掴む。響き漂う音像が、心奥底に根を張るように、深い領域へと染み渡る。内側に行き渡る不思議な質感は、夢の最奥に現れる女神様の慈しみと良く似ていた。しかし、その奥底には、なんとも陰鬱な悲哀の色が滲んでいた。あまりにも痛ましい奥行きからは、何気なしに感じられることがある。それは、帰るべき場所を失ってしまった絶望と、行き場さえもなく彷徨い続ける苦悩。女神の待つ黄金の泉を目指して、苦役に満ちた旅路を歩む漂泊者。そのような印象こそが、謎多き来訪者に宿された本質。


 痛みを宿した細波が、音に混ざって押し寄せる。人魚は心締め付けられる思いを抱きながらも、内に秘匿された素性さえ分からない感情に震えていた。自分の心にも、似たような影が潜んでいる……。そんな思いに包まれると、真摯な祈りを捧げるように、東屋を仰ぎ見上げて瞑目した。

 

 岩陰に潜み祈り捧げる人魚と、東屋で音を奏でる来訪者。静謐な湖畔で交された不思議な邂逅の風景は、描き出された一枚の絵画のように静止していた。



 やがて時が経過すると、ゆっくりと音が途絶えてゆく。何も知らない銀髪の半妖は、そっと演奏の手を止めた。だらりと身を崩して、ゆったりと呼吸を整えながらも、過ぎ去った時に思いを巡らせる。数分足らずの演奏だったのか、それとも数時間に及ぶものだったのか、今ではもう思い出せなかった。どっぷりと深い溜息を溢しつつも、心地よき感覚へと浸り落ちてゆく。


 高い位置に輝いていた光球は、徐々に稜線に近付こうとしていた。銀髪の半妖は物思いに耽りながらも、奥深き静寂に包まれた湖を見つめた。耳を擽る音像は風の囁きのみであり、鳥の囀りのみならず、羽ばたきの音さえも聞こえない。更なる静けさを際立たせてゆくように、空に新たな色が滲み落とされる。あらゆる音を焼き尽くすほどの色彩は、昼夜の狭間を象徴する朱き息吹に染まっていた。時は夕刻へと流れゆき、やがては闇の主たる夜へと全てを明け渡す。


 燃えるような夕焼けや、煌々と輝く星空に染まる湖畔風景は、きっと美しいに違いないだろう。銀髪の半妖は変遷を続ける風景に、細やかな思いを馳せつつも、帰路に就くべき必要性を思い出した。夜を迎えた山での行動は、あまりにも危険極まりない。もうこれ以上は、この場所に居続けることはできないのだ。流れる時が彩る景色に対する渇望を、名残惜しげ振り払いつつも、楽器を仕舞い立ち上がる。天高くに両腕を伸ばして、深く呼吸を整えると、安らぎに満ちた香気を存分に堪能する。


 心地よきひと時を提供してくれた東屋を後にして、樹海へと向かう最中のこと。朱く染まり始めた建造物が、さり気なく視界を擽った。それは、南岸に鎮座する謎めいた古城。神を祀る社とも、重要な存在を偲ぶ墓標ともいえそうな印象を前にすると、ついつい足を止めてしまう。瞼を深く沈めては、慎ましやかな祈りを結ぶ。心深くの片隅で、感謝と別れを告げつつも、さり気なくも再訪を願い立てる。そして、朱く染まり始めた光に背を押され、ひとり静かに湖畔から立ち去っていった。



 人魚は未だに硬直した状態で、ひっそりと岩陰に身を潜めていた。去り行く不思議な来訪者を茫然と見つめていると、いつの間にか森の彼方に消えてしまったことに気が付いた。


 ––あれは一体……女神様に似ているけど、何か少し違う……


 念を介して呟くと、固く強ばった肩がぐったりと落ちてゆく。あまりにも強すぎた緊張感は、感じたこともないほどの深い疲労をもたらした。少しでも気を抜けば、真っ逆さまに湖に沈み落ちてしまいそうだった。そうだとしても、容易く意識が崩れることもない。疲れ切った肉体とは裏腹に、思考は加速し続ける。


 どれだけ思いを巡らせても、答えに到達することはない。姿を消した不思議な来訪者––––その素性はおろか、この場所に訪れた目的さえも分からない。明らかなことは二つだけ。夢の奥底で奏でた旋律にも似た音像は、あの存在によって生み出されていたこと。そして、夢の最奥に現れる女神様との類似点を持つこと。それだけは、確かに理解することができた。人魚は遠く彼方に思いを馳せるように、朱く染まり始めた空を見上げた。すると、稜線に向かいゆく光球の輝きが、ある一つの結論を紡ぎ出す。


 ––もしかすると、あの方は……女神様に仕える存在なのかもしれない……


 根拠の欠片もないことなのだが、何故か人魚はそのように確信した。あの方は、女神様の使者……女神様のお遣いとして、湖畔に訪れた……。まるで祝詞を唱えるように、念を介して囁く。確信、渇望、そして祈念が複雑に入り混じる思惑が、波紋と化して心を強く震わせた。人魚は夕焼け空を見つめながらも、女神の使者たる存在が残した余韻に浸っていた。そして、儚き思いを胸に抱き締めた。


 ––どうか、もう一度……あの音を……


 微かに漂う夕霧が、時の変遷を加速させてゆく。沈みゆく光球の煌めきが、人魚を照らし輝かせる。甘い幻想への没入を促すように、霧までもが朱き色合いに染められていた。光の寵愛を受けた人魚の姿は、夢の最奥に現れる女神にも似ていた。まるで、この領域を司る女神としての役割を明示するように、溢れる光と同期して、際限なく輝きを増してゆく。

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