5
穏やかな日差しに包まれた湖畔には、心地よき微風が流れていた。暗緑の迷宮に順応していた感覚は、この場に相応しい彩りに塗り替えられようとしていた。緊迫感を帯びた慎重な歩みは、いつの間にか軽やかな足取りへと変化していた。吹き込む息吹に揺られつつも、銀髪の半妖は思いを巡らせる。
果たして、どこに向かうのがいいのやら……。まずは最初にやるべきは、この土地の主とも言えそうな古城への挨拶だろうか。滲み漂う雰囲気は、遠い過去に置き去りにされたような幽寂な趣。恐らく、今はもう誰の姿も残されていないのだろう。なんとも近寄り難い印象を覚えると、無闇やたらと関わりたくはないと感じてしまう。
それならば、先に魅了された黒き彩りに染まる西岸はどうだろうか。しかし、香りを通じた花々の語らいは、絶対に邪魔したくない。不用意な接触さえも慎むべき風景は、遠くから見るだけで充分過ぎるほどに満足だった。
何よりも気になることは、この土地の中心を彩る湖の全貌だ。地図にも載ってなければ、伝承にさえも残されていない土地の詳細を、今すぐにでも確かめたい。そんな思いに駆られると、適切な場所を探り出そうと周囲一帯を見渡した。真っ先に目に付いたのは、東の方角に続く緩やかな丘。何が待ち受けていのるかも分からないが、高い位置から湖を一望するには丁度よいだろう。銀髪の半妖は考えるまでもなく、東に続くなだらかな坂へと向かった。
高台を予感させる道筋を進むと、予期せぬものが待ち構えていた。自然の織り成す風景に、僅かな違和感を及ぼす人工物。そうはいえども、何かの碑のような建造物は、この領域に完全に調和していた。恐る恐ると近付いてゆくほどに、その正体が明るみにされてゆく。
小丘の頂点に佇む建造物は、品良き姿の東屋だった。なんとも優雅な佇まいは、湖を眺めながらの休息に相応しいだろう。先に見かけた古城と似通った印象を覚えると、微かな警戒心が背筋を震わせる。慎重な足取りで近付いてゆくと、誰の気配さえも残されてない様子が窺えた。この場も古城と同じように、長きに渡り放置されているようだと感じられた。
簡素でありながらも上品な東屋は、堅牢な石材によって構築されていた。どことなく見受けられる印象は、高貴な系譜の面影。由緒深き厳かな風格を前にすると、近寄り難く感じてしまう。しかし、それを上回るほどの好奇心に背くことはできなかった。
銀髪の半妖は緊張感に震えながらも、半球状の屋根の下に足を踏み入れた。真っ先に視線を奪った象徴は、中央部に鎮座する巨大な円形の石。周囲を見渡してみるものの、これ以外のものは東屋の内側には存在しなかった。寝転がれるほどの大きさは、石棺とも寝椅子とも言えそうだ。恐る恐ると手を伸ばすと、とても滑らかで心地よい感触が伝わってきた。
疲弊した身体を休めるには、最適な場所だと言えるだろう。それだけに留まらず、この場に足を運んだ目的を果たすこともできそうだ。柱の隙間から覗き見えるのは、遮るものなき壮観の面影。少しばかり休憩をしようと思い立ち、背負った荷物を丁寧に降ろす。肩にのしかかる重圧から解放されると、脱力感に満ちた吐息が溢れ落ちてゆく。
銀髪の半妖はぐったりと身を崩して、円石の上に横たわった。岩肌から滲み伝わる冷感が、疲弊した肉体に癒やしを与えようとしていた。なんとも不思議な心地よき感覚に身を委ねると、野山の散策による疲労感が、ふわりと溶けて消えていった。奇妙な安堵に浸りつつも、鉱石にまつわる話を思い出す。
特殊な力を秘めたる鉱石の中には、疲労回復効果を宿すものがあるらしい。極めて希少であるが故に、そうそう出回るものではない。もちろん、実物を見たことさえもない。今こうして身を預けている円石は、それに類する希少な鉱石なのかもしれない。肉体を包み込む心地よき感覚に浸っていると、眼前に広がる風景に意識を奪われる。
遮るものなき高台から臨む湖畔の全貌が、視界一面に広がっていた。その中心を彩る湖は、信じられないほどに澄み渡っていた。煌めく水面は鏡面と化していて、広大な蒼穹を映し出していた。その外郭を額縁のように飾り立てるのは、周囲を取り巻く山々や樹海の風景。あまりにも凄まじい絶景は、この美しき領域の風景を描いた絵画そのものだった。
湖を彩る実像と、水面に映し出された鏡像が、一枚のキャンバスの上で重なり合う。その印象を最も美しく彩るのは、黒き彩りに染まる西岸の一角。数多の浮葉と花々が織り成す印象は、あまりにも幻想的で美しい。そして、傍らに寄り添うように重なるのは、鏡面に映し出された彩り。それもまた、何かの花であることが窺えるが、素性や詳細は朧げに暈されていた。鏡像の花々が、水面を彩る実像の花々と重なり合う。なんとも不思議な印象が、最たる魅力を描き出していた。
流れ漂う微風が、水面に揺らぎを滲ませる。微かな息吹を灯された風景は、決して静止した絵画などではない。光が流れて弧を描き、不思議な躍動が迸る。映し出された青空が、波立つように揺れ動く。甘い歪みに崩れ始めた鏡像が、徐々に形を変えてゆく。一つの意志が起点となり、数多の息吹が同時並行的に稼働する風景は、紛うことなき実世界の象徴だった。
絵筆を滑らせたような彩りは、湖に生きる魚の悪戯だろうか……。虚ろげな思いを巡らせながらも、銀髪の半妖は変遷を続ける水面風景に見蕩れていた。滲み広がる波紋に視線を奪われると、奇妙な揺らぎが波打つように意識を擽った。馴染みある感覚の正体は、思いを馳せる必要もなく理解できる。それは、予期せぬ形で揺り戻ろうとする、薄れかけた樹海特有の酩酊感覚が織り成す悪戯。水面に流れる細波が、視界に重なり合ってゆく。やがて、奇妙な波紋の幻惑が、心深くに滲み広がり溶けていった。
対岸から届けられた微風の囁きが、更なる奥深き没入へと誘い込む。ゆらりゆらりと漂う香りが押し寄せると、不意に意識を奪われてしまう。立ち止まることなき微風は、躊躇いもなく別れの軌道を描き出した。去り際に贈られた残り香が、いつの間にか髪に留まり心を甘く刺激した。香りに宿る違和感が、じわりと心に染み渡る。内に蕩ける思惑には、花々の語らいの風景が垣間見えた。内に灯された幻惑が、艶やかな色彩を帯びてゆくと、ある一つの渇望が心奥底から押し寄せる。胸に抱いた願望は、この領域に捧げる厳かな祈りそのものだった。
銀髪の半妖は鞄に手を伸ばした。おもむろに取り出した物体を、そっと膝の上に置く。これもまた、湖畔に存在しないはずの人工物––––多数の弦が張り巡らされた楽器。膝に置かれた板状の弦楽器は、ある種のツィターといった形状をしていた。手慣れた様子で調弦が始まると、確かめるように一つ一つの音が爪弾かれる。立ち昇る音粒は、湖畔に存在しないはずの音像を描き出した。そして、風の囁きに入り混じるようにして、虚空に響き溶けていった。
全ての調律を済ませると、仕上がりを確かめるように解放弦を響かせた。潤いに満ちた音色は、風の織り成す持続音に混ざり合い、湖畔一帯に滲み広がっていった。名残惜しげな残響が途絶えると、意味を宿した演奏へと続く。紡ぎ出された音粒が、震える弦から立ち上る。揺らぎ舞い散る音像が、滲み溶けては消えてゆく。次なる音が紡がれて、去りゆく音波の尾鰭と重なると、儚くも美しき旋律へと変容を遂げていった。意図せず音に託された思惑が、更なる奥行きを描き出す。奏でられた振動は、湖畔全体を侵食するように、滲み広がり溶け込んでいった。
鮮明な風景が描き出された湖は、甘い歪みに包まれようとしていた。不思議な波紋が波打つと、鏡面を崩すほどの揺らぎが滲み出す。湖畔に存在しないはずの音が溢れると、次々と新たな細波が押し寄せる。波打つ奇妙な侵食は、収まることなく同心円状に広がっていった。紡ぎ出された旋律は、余すことなく湖畔一帯を包み込み、どこまでも深くへと響き溶けては散ってゆく。予期せぬ新たな来訪者が、この場に受け入れられたことを示すように、全てが自然に調和して、湖畔の一部と化していった。
銀髪の半妖は黙々と演奏に耽っていた。外側の変化に気付くこともなく、心奥底から溢れる旋律を紡ぎ出していた。まるで、内に宿された風景を模写するように、祈りを音に託して響かせる。この場に存在するはずもなき旋律が、縁なき来訪者によって紡がれる。なんとも不思議なその姿は、湖畔に舞い降りた天人そのものだった。祈りの戯曲が奏でられると、数多の波紋がどこまでも深くへと染み渡る。滑らかな癒やしの螺旋に包まれた存在は、美しき孤独に浸りながらも、絶え間なき演奏を続けるのだった。
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