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 夢見心地に恍惚と、銀髪の半妖は眼前に広がる風景に浸っていた。深く呼吸を整えるたびに、虚空に漂う香りが内側深くへと染み渡る。内に秘匿された領域を擽るように、可憐な色を滲ませるのは、なんとも美しき春模様。あまりにも心地よき感覚が、樹海で享受した酩酊感と絡み合うと、奥深き陶酔感覚へと変容を遂げてゆく。


 不意に不思議な違和感が、波打つように押し寄せる。その感覚に意識を向けてゆくと、心を揺さぶる奇妙な錯覚的印象が、脳裏に描き出されてゆく。まず最初に現れたのは、内に秘匿された風景。暗がりに閉ざされた最奥には、小さな泉が置かれていた。闇に埋もれる水鏡は、時の枠組みから外れてしまったかのうように、完全に静止していた。


 光さえもが届かぬ極地へと、次なる色が灯される。それが意味する象徴は、確かな躍動の息吹を宿した一滴の雫。流れのままに落下して、ありとあらゆる境界を貫くと、最奥に宿る静止した水面を突き破る。その衝撃こそが、闇に塗り潰されていた領域に、確かな息吹が灯すきっかけを生み出した。突如として捧げられた水飾りの王冠は、躊躇いもなく散ってゆく。雫の生み出す音像に、奥深き残響を与えるかのごとく、奇妙な波紋が滲み出す。幾重にも重なり合ってゆく細波は、心奥底に秘匿された水鏡を、余すことなく震わせた。


 内側を揺さぶる感覚と、外側に溢れる印象が、一つの色に混ざり合う。すると、この場に宿る様々な思惑が、何かを伝えようと押し寄てきた。鮮烈な恍惚感を誘発させる彩りに圧倒されつつも、それらの一つ一つを丁寧に、捉え受け取ろうと思い立つ。真っ先に心を強く惹き付けるのは、微風に運ばれた芳香だった。


 静かに瞼を薄めては、鼻腔を擽る香りに意識を傾ける。すると、その出所を伝えようとするように、不思議な影が視界を掠め撫で付けた。銀髪の半妖は奇妙な揺らぎを辿ろうと、静かに瞼を持ち上げた。微かな期待に揺れる瞳に、黒き朧げな煌めきが灯される。あまりにも異質な色合いは、何かの影のようだ。しかし、自ら光り輝くような姿には、明らかに影とは異なった印象が感じられた。


 眩しい光を遮るように、そっと掌を持ち上げる。改めて焦点を合わせ整えると、黒き揺らぎの正体が、ほんの僅かに明るみされてゆく。黒き不思議な面影は、水面に敷き詰められた煌めき。随分と距離が離れているために、その詳細を捉えることは難しい。なんとも奇妙な水紋には、ついつい好奇心を擽られてしまう。


 心揺さぶる風景に、蕩けた溜息が混ざり合う。不思議と心を奪うのは、水面に墨を落としたような印象。儚き黒の煌めきは、この世とのものとは思えないほどに美しい。奇妙な懐旧にも似た思いに擽られるものの、これに類する記憶は存在しないはずだった。

 

 歯痒い思いに揺られると、どこからともなく柔らかな風が訪れた。ふわりと煽り立てた髪に香りを灯し与えると、遠く彼方へと流れ去ってゆく。この芳香は、かつて嗅いだことのある花の精油とよく似ていた。一抹の期待を込めて、小振りな望遠鏡を取り出すと、水墨波紋に彩られた風景へと標準を合わせる。絞り定めた焦点には、摩訶不思議な植物が群生していた。


 水面を覆い尽くす影模様は、漆黒に染まる数々の円葉によって描かれていた。敷き詰められた浮葉の隙間からは、凛と真っ直ぐに伸びる花茎が覗き見える。その先端を飾り立てているのは、微かな紫色を帯びた黒き花。簡素な作りのレンズでは、詳細を見定めることは難しい。辛うじて捉えることができたのは、朧げに暈された姿のみ。そうだとしても、咲き誇る花々や水面を覆う葉々の印象は、とある植物と良く似ていた。黒き不思議な円形模様の彩りは、恐らく睡蓮の類いだろうかと思われる。


 あまりに美しき様態に、銀髪の半妖は心を奪われていた。水面彩る美しき花々に見蕩れていると、その背景を彩るような異質な揺らぎが現れる。微かな好奇心を刺激されると、レンズの向き先が移り変わってゆく。焦点を合わせ整えた一点には、水辺を越えた陸地の風景が広がっていた。


 そこにもまた、不思議な影が滲んでいた。緑豊かな背景を飾り立るのは、奇妙な黒き彩り。ここにも黒き睡蓮が……と思いつつも、その可能性は低いだろうと自答する。自身の理解の範疇では、睡蓮は陸地に宿る植物ではない。黒き彩りの正体を探るべく、レンズの焦点を絞り合わせて目を凝らす。しかし、擦れ暈された姿容からは、明確な素性を把握することはできなかった。ただ唯一理解できることは、その揺らぎさえもまた、種類違えど漆黒に染まる植物だということだ。


 溜息とともにレンズを降ろすと、次なる微風が流れ着く。髪を煽られる感覚に蕩けると、濃厚な香りが鼻腔を擽った。意識を傾ける必要もなく、その芳香の成り立ちを理解することできる。数種の花々が混ざり合って生み出された、麗しき芸術品のような創造物。まるで、丁寧な調香によって生み出されような彩りが、心に新たな揺らぎを滲ませる。


 香りに宿る意味合いが、錯覚じみた様相に変化を遂げてゆく。意識の奥底へと届けられた印象は、花々が穏やかに語り合うような幻影だった。距離の離れた場所に生きる花々が、香りを通じて健気な思いを交し合う。そんな一幕を受け取ると、なんとも歯痒い思いに擽られてしまう。香りを通じて寄り添う花々の思惑は、眩暈がするほどに美しい。静謐な語らいを邪魔してはいけない……という思いに駆られると、流れる微風に導かれるようにして、他へと視線を向けてゆく。


 真っ先に視線を奪ったのは、岸辺付近に鎮座する小さな石造りの建造物。随分と古めかしくありつつも、なんとも品良き風貌は、小さな城といった表現が適切だろうか。澄み渡る湖を見守るように鎮座する姿には、思わず見蕩れてしまう。滲み漂う厳かな雰囲気は、神聖な存在を祀るための社のようでもある。長きに渡り放置された印象からは、今ではもう使われてはいないことが感じられる。既に人々の記憶から忘れ去られたような古城には、淡く侘しき彩りが滲み溢れていた。


 銀髪の半妖は茫然と立ち尽くしながらも、新鮮な風景に魅了されていた。一抹の期待を込めて方位磁石を取り出すと、狂い乱れることもなく方角を指し示した。磁場の乱れる樹海では、一切の使い物にならないはずなのに、この場所では勝手が違うようだ。今いる場所は南を指しており、黒き花々の咲き乱れる方角は西を示していた。本来なら今すぐにでも引き返して、樹海の出口と繋がる野道を探すべきだろう。それでも、抗うことのできない好奇心に駆られると、自然と身体が動き出していた。銀髪の半妖は恐る恐ると慎重な足取りで、湖畔の奥地へと向かっていった。

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