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 樹海に足を踏み入れてから、一体どれだけの時が過ぎたのだろうか。ほんの一瞬だったのかもしれないし、永遠にも近しい時の牢獄に捕われていたのかもしれない。虚ろげな思索に揺さぶられながらも、銀髪の半妖は樹海の奥深くを彷徨っていた。次々と浮上する思考の断片は、いつの間にか薄れ消えてゆくばかり。意識を擽る幻影の導きのままに、行くあてもなき歩みが続く。


 少しばかり時を経て、ようやく前方から微かな光が注ぎ込んできた。この兆候が意味することは、帰路へと繋がる樹海の終端への到達。こうして徘徊を続けていると、いつも決まって出口に辿り着く。今回もまた、普段と変わらぬ展開が予測できるものの、行く手から差し込む光には、微かな違和感が潜んでいた。これもまた、樹海のまやかし……所詮はキノコの酩酊による悪戯だろうか……。そんな思いを巡らせつつも、特に不安に駆られることもなく、光注ぎ込む方向へと歩みを続けてゆく。


 周囲を埋め尽していた樹々が、徐々に数を減らしてゆく。空を覆い尽くす枝葉の隙間から、僅かな木漏れ日が差し込んでくる。すると、暗緑に塗り潰されていた風景に、淡い光が灯される。樹々の隙間から届けられた煌めきが、行く手の彼方に矩形状の光柱を描き出す。


 摩訶不思議でありながらも、あまりにも神聖な光景だった。しかし、樹海を抜ける際には、決してこのような風景を見ることはない。銀髪の半妖は眩い光に意識を奪われつつも、確かな違和感に眉を顰めた。すると、更なる異質な感覚が、波打つように押し寄せてきた。最たる刺激を及ぼすのは、耳を擽る不思議な騒めき。微かではあるものの、確かな意味を宿した旋律が聞こえてくる。それが意味することは、この場に存在するはずのない風景の予感。


 風の囁きに秘匿された音像の正体は、揺らぎ流れる水の音。山奥には相応しくない印象であるものの、意識擽る現実感は幻とは言い難い。予期せぬ奇妙な揺さぶりに見舞われると、微かな不安と好奇心が絡み合う。拗れ入り組んだ感情を塗り潰すように、徐々に水の音像が鮮明さを増してゆく。


 突如として膨大な光が注ぎ込んだ。闇に慣れた瞳を貫かんばかりの輝きは、全ての思考を余すことなく焼き尽くした。消炭と化して崩れ散る困惑を見送るかのように、反射的に掌が持ち上がる。眩む視界を覆いつつも、痛み堪えるかのように瞼が沈み落ちてゆく。強烈な光が全てを均一に塗り潰そうとするものの、静止ことなき時だけは、確かな流れを刻んでいた。脈打つか弱き律動は、大地を踏み締める足音。手探るような辿々しい足取りが、膨大な光の彼方へと消えてゆく。際限なく溢れ迸る輝きは、皓き闇へと姿を変えて、全てを余すことなく飲み込んだ。


 強烈な違和感に晒されつつも、銀髪の半妖は前へと進んでいた。固く閉ざした瞼を超えて、瞳までもを焼き尽くそうとする光の侵食は、そう長くは続かなかった。薄れ和らぐ煌めきと入れ替わるように、ふわりと爽やな微風が流れ込む。髪を撫でる風の質感は、樹海を抜ける時の印象とは大きく異なっていた。釈然としない思いを抱くものの、それもまた長続きすることはない。微風に宿された優しき香りの印象が、暴れ狂おうとする思考を滑らかに塗り染めた。心を歪ませる不穏な思惑は、いつの間にか遠く彼方に消えていた。


 虚ろげな夢から醒めるように、銀髪の半妖はゆっくりと瞼を持ち上げた。露にされた眼球は、途端に強い驚愕に見開かれた。理解の範疇を超えた光景を前にして、思わず絶句してしまう。ここは帰路へと繋がる一本道の関門たる、樹海と野道の境界ではなかった。瞳に突き付けられたのは、見たこともない静謐な湖畔風景。


 初めて目の当たりにする光景を前にすると、思わず目を疑ってしまう。それでも何故か、酷い焦燥感が再来することはなかった。流れ漂う心地よき微風は、あまりにも心地よくて温かい。柔らかな慰撫に擽られると、乱れた心に凪が訪れる。


 蕩けた意識を結い直し、現実へと焦点を合わせてゆく。何よりも気掛かりなことは、初めて目の当たりにする風景に関する詳細だった。山奥にまつわる記憶を辿りながらも、紐付く情報を手繰り寄せようと試みる。しかし、類する記憶の欠片はどこにも存在しなかった。山奥に湖が存在するなどとは、聞いたことも無ければ、地図にさえも記されていない。ましてや、謎多き鬱蒼たる樹海の奥になど、尚更のことだった。


 銀髪の半妖は驚きに目をしばたたかせた。あまりにも予期せぬ展開には、樹海で享受した幻惑の影響を疑うしかなかった。それでも、この風景は決して幻などではないだろう。現実であることを突き付けるように、次々と明確な印象が押し寄せる。


 髪を撫でる柔らかな微風––––風に揺られた枝葉や水の騒めき––––そして、微かに漂う甘く切なげな花の香り––––。視覚のみならず、ありとあらゆる感覚が震え沸き立つと、容赦なきまでに心が刺激されてしまう。深く呼吸を整えて、大きく瞼を閉じ開く。改めて目の当たりにした美しき湖畔風景は、意識変容による悪戯ではない。これは幻惑が生み出した光景ではなく、現実に宿る風景そのものだった。


 流れ漂う微風の慰撫に包まれると、あらゆる違和感が擦れてしまう。心を締め付ける不安や焦りさえも、いつの間にか忘却の彼方へと消えていた。気が付くと、感覚や意識のみならず、心までもが眼前に広がる風景に魅了されていた。心奥底に溢れる思いは、一目惚れにも似た深い愛着だった。

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