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 無謀にも樹海を彷徨い歩く影がまた一人、樹々の隙間から姿を現した。ふらふらと漂いながらも時折足を止めて、樹木の根元に生えている苔やキノコを採取する。そして、何ごともなかったかのように、流れるように歩みを再開する。死霊の茸の魔手から逃れるように、器用にキノコを選別してはいるものの、次なる追っ手が見逃すことはない。うぞうぞと奇妙奇怪な根を蠢かせて、躙り這い寄る暗影は、樹海の番人たる歩行樹。ゆらりと邪悪な太枝を揺らめかせ、今にも搦め捕らえようと忍び寄る。


 間合いに入ろうとした瞬間のことだった。こともあろうか歩行樹は、思い止まるように枝を引っ込めた。ほんの一瞬立ち止まると、無視を決め込むように踵を返して、悠然と歩き去っていった。闇に溶けてゆく歩行樹の樹洞には、人面を思わせる傷痕が宿されていた。去りゆく影を追いかけるように、特徴的な不気味な傷痕が蠢いた。そして、救済を懇願するかのごとく、譫言にも似た呪詛の念が零れ落ちてゆく。


 ––た……すけ……て……


 彷徨う影は視線を向けることもなければ、関心さえも示さずに立ち去った。そして、怪しげな明滅を繰り返すキノコの輝きを頼りにして、更なる奥深くへと歩み続けていった。


 山頂から吹き下ろされた風が、樹海に濾過されるように流れ去ってゆく。妖しき香気を宿した微風は、樹々の隙間を漂いながらも、彷徨う影を撫で付ける。流れのままに煽り立てられた胞子から、朧げな微光が滲み出す。闇に塗り潰された領域が、ほんの僅かに照らされる。すると、樹海らしからぬ彩りが、微かに揺らぎ覗き込む。ふわりと微風が吹き込むと、不思議な銀の絹糸を思わせる揺らぎが、流れ漂い舞い上がる。


 主を失った絹帯が、どこからともなく迷い込み、闇の奥へと消えてゆく。そんな揺らぎの正体は、樹海を彷徨い歩く影の髪。煽り立てられた髪の隙間から、秘匿されていた表情が覗き込む。そして、去りゆく微風を見送るように髪が流れ落ち、全ては頑なに覆い隠されてゆく。光を帯びた胞子が流れ去ると、鬱蒼たる暗緑が全てを余すことなく塗り潰す。


 視界を覆う暗がりを恐れることもなく、影はふらふらと歩き続けていた。不安定な足場に捕われると、ゆらりと髪が揺れ動く。その瞬間に、秘匿されていた瞳が見え隠れる。漂う胞子が照らし込むと、この場に存在しないはずの色が滲み出す。厭世的な香りを滲ませる鋭い瞳は、仄暗い紫桃色に染まっていた。続いて覗き見えたのは、生気を失った幽霊のような蒼白な表皮。


 更なる素性を晒そうと、一際強く流れる風が髪を撫で付けた。すると、覆い隠されていた目鼻立ちが、半ば強引に暴き出されてゆく。紫桃色の帯びた色調の瞳、今にも散りそうな桜色を帯びた唇、そして後方に流れるように微かに尖った形質の耳……。特徴的な印象が次々と露にされると、途端に華奢な掌が伸ばされる。手櫛で髪を流すような仕草が取られると、全てが頑なに秘匿されてしまう。去りゆく微風を見送ると、影は更なる闇の奥へと歩みを再開した。


 樹海を彷徨い続ける影の風貌は、麓の街に住まう人とは少しばかり違っていた。異質な色を滲ませる面影には、純血の人間とは異なる印象が滲んでいる。隠すことのできない明確な象徴が意味するのは、混血であることの証明。人間と他種族の間に生まれた異形たる混血は、麓の街では忌み嫌われる傾向がある。特に明確な理由があるわけではないが、不完全かつ不浄な存在として、感情的な嫌悪感を及ぼす対象とされていた。


 一概に混血といえども、血を分けた種族によって、その特性は様々だ。樹海を彷徨う影は妖精と人間の血を分けており、双方の種族的特徴を混ぜ合わせた存在––––半妖として定義付けられていた。妖精とは、森との深い縁を持つ種族。そして、樹海を彷徨う歩行樹は、妖精族と親和性のある存在だと言われている。両者は共生関係にあり、ある種の同胞として長い歴史を歩み続けてきた。その密なる協力関係は、互いの社会基盤の構築にまで及んでいる。


 奥深き森に築かれた都市に住まう妖精族は、歩行樹の加護によって高度な文明を築き上げてきた。縄張りの防衛や、生活基盤の管理運用のみならず、様々な恩恵が歩行樹によってもたらされていた。それに対する対価として、妖精は潤沢な魔力を惜しみなく分け与え、歩行樹の成長と発展の手助けをする。両者は相利共生の関係によって、類いまれなき発展を続けていた。強大な魔力を誇る妖精は、確固たる歩行樹の加護に恵まれて、尋常ならぬ影響力を持っている。いつの時代も変わらずに、世界の上位階層を司る一派としての存在感を知らしめていた。そして、現代では最頂点たる位置を獲得し、世界の盟主たる種族としての絶対的な権限を与えられていた。


 歩行樹が現れる場所には、妖精の姿あり。そう云われはするものの、この地の周辺には妖精族の集落は存在しない。昨今では力を持ち過ぎた妖精に従属する形で、歩行樹が存在する傾向が一般的だとされている。そのため、妖精のいない土地に歩行樹が存在するということは、極めて珍しい事例なのだ。どうしてわざわざ歩行樹が、辺境の山奥に広がる樹海に生息するのだろうか。その理由を知る者は、誰一人としていなかった。この地は遥か昔から、歩行樹の縄張りたる禁足地として教え伝えられていた。


 樹海を彷徨う銀髪の半妖は、もちろん純血の妖精ではない。どちらかと云えば、人間的特徴の方が強く現れているように見受けられる。つまりは歩行樹との繋がりを築くための魔力など、欠片たりとも持ち合わせていない。たからこそ、共生関係を構築することはできずに、安全が保障される確証さえもない。結局のところは不埒な侵入者に過ぎず、捕食対象とされるべき存在なのだ。


 しかし、その事実を一切気にも留めることもなく、銀色の半妖は暗緑の迷宮を彷徨い続けていた。時に足を止めたかと思いきや、大地に転がる何かを拾い集めては、茫然と虚ろげな徘徊を再開する。歩みとともに続くのは、奇妙な蒐集の数々––––奇妙な苔、剥がれ落ちた樹皮、結晶と化した樹液など。樹海特有の希少な品々が、次々と鞄に収められてゆく。淡い光を振り撒く胞子を浴びながらも、妖しげに発光するキノコを選りすぐる。充分な収穫に恵まれると、ふらりふらりと立ち上がり、虚ろげな徘徊を再開する。残り香のようにまといついた胞子の数々が、去りゆく後ろ姿を飾り立てる。仄かな光の悪戯が、妖しき尾鰭を流し引き、闇の彼方へと薄れ溶けては消えてゆく。


 力抜けたような足取りは、今にも大地から離れしまいそうだった。奇妙な浮遊感をもたらすのは、先に摘み取ったキノコの悪戯。光を溢れる胞子には、円やかな酩酊作用が宿されている。その影響を直に受けた銀髪の半妖は、心地よき幻惑の細波に揺られていた。確かな意識の変性が、重く沈んだ表情に微かな揺らぎを滲ませる。憂いを帯びた眼差しは、柔らかな印象に染まりかけていた。


 解れた瞳に映し出された現実に、ゆったりと渦巻く波紋が重なってゆく。不思議な揺らぎが波打つと、心蝕む歪みさえもが崩れてゆく。優雅な幻惑の抱擁に心を包み込まれると、ありとあらゆる痛みや苦しみが、意識の外へと擦れ溶けては消えていった。いつの間にか忘却の彼方に消えてしまった記憶には、潜在的な樹海への恐怖心までもが含まれていた。意識を擽る波間に揺られつつ、樹海の一部と化すように、銀髪の半妖はあてもなき徘徊を続けていった。


 視界に重なる波紋が誘う極地には、円やかな恍惚感が待ち受けていた。波打つ揺らぎが脳裏に染み渡ると、五感を超えた感覚が、尖り鋭さを増してゆく。自然と呼吸が落ち着くと、溢れる香気が内側に巡り流れて溶けてゆき、更なる奥深き安寧が心を包み込む。内側深くから押し寄せる細波に導かれて、銀髪の半妖は更なる深淵へと沈み落ちてゆく。そして、漆黒にほど近い暗緑の彼方へと、溶け込むように消えていった。

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