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静寂に包み込まれた山々の奥深くには、果てしなく深い森が広がっていた。延々と続く山道を昇り抜け、草木に覆い隠された野道を進み越えてゆくと、ようやく極地たる深淵に辿り着く。その場所は、山の最深部とも言える領域であり、全てを飲み込むほどに奥深き樹海の入口でもあった。
立ち入りを拒むような暗澹たる風景は、この場所に至るまでの野山とは、全く異なった印象を帯びていた。何よりも目を引くのは、異界に通じる関門のような光景。陰惨たる墓標を思わせる樹々に隠れた一本道が、凄み溢れる不気味な闇へと続いている。日中であるにも拘わらずに、行く手は陰鬱な暗緑に塗り潰されていた。その原因を生み出すのは、空を覆い尽くすほどに折り重なった枝葉の数々だった。
差し込む光が余すことなく遮られ、細部を見定めることは難しい。闇に塗れて押し寄せる違和感は、あまりにも奇妙な歪みに染まっていた。まるで、現実とは異なる時の狭間に誘い込むかのように、不穏な静寂が迫り来る。引き返すことなく無謀にも、奥地へと進むに従って、大気を塗り染める重圧が増してゆく。そして、退路を塞ぎ隠してしまうように、僅かな光さえもが薄れ消え、全ては仄暗い闇に塗り潰されてしまう。
暗緑に染まる暗がりには、動物の気配すらも感じられなかった。現実から隔離されてしまったかのような環境は、極めて異質な静寂に支配されていた。別次元へと続く深淵を描いた抽象絵画のような風景が、先行くほどに色濃さを増してゆく。
樹々が織り成す海原の全貌は、未だ明らかにされてはいない。魔性の樹海として畏れられたこの森に、愚かしくも不用意に立ち入った者は、容赦なく飲み込まれると決まっている。捕われてしまったら最後、どう足掻いても脱出することはできない。ただそれだけが、唯一明るみにされた理。
多くの光が遮られた風景では、視覚を頼りにすることは難しい。封じられた感覚を補うように押し寄せる思惑が、影に控えるもう一つの感覚を刺激する。波打つように漂う芳香が、闇に塗れて滲み出す。先行くほどに奥深さを増してゆく香気には、暗緑の風景に潜む謎めいた囁きが潜んでいた。
荘厳な樹木が織り成す安息感––––生い茂る苔から滲む微かな甘き彩り––––多種多様なキノコから漂う幻惑的な揺らぎ––––。様々な香気の断片が幾重にも重なって、独特の芳香が生み出されていた。そして、樹木の隙間を掠め吹き去る微風によって、混ざり合った香りは遠く彼方へと運ばれてゆく。
妖しくも美しき香りに誘われて、樹海へと足を踏み入れようものなら、二度と外に出ることはできない。そんな妄言にも似た伝承が、麓に住まう者たちの間で信じられていた。奥へと進むに連れて、その話の由縁たる要素が存在感を増してゆく。それは、時間感覚を麻痺させるような、容赦なき薄闇の侵食。
更なる罠を仕掛けるように、数多の樹々が幾重にも重なり合う。まさに樹木の織り成す迷宮といった風景が、延々と絶え間なく続いてゆく。奥深き暗緑の海原に迷い込むと、あらゆる感覚が悪戯に撹乱されてしまう。まず最初に現実感が暈されて、方向感覚が失われる。そして、五感を超えた領域に対する認知さえもが、悪戯に狂い壊れてゆく。為す術もなき撹乱に見舞われると、いとも容易く囚われの身に陥ってしまうのだ。
何よりも性質が悪いのは、樹木の根本に生い茂る多種多様なキノコの悪戯。闇に彩りを添える色鮮やかなキノコ–––鉱石のように硬質な煌めきを誇るキノコ––––妖しげな明滅に耽る不思議なキノコ––––。奇妙なキノコが織り成す芳香が、絡み合うように複雑に混ざり合う。そして、足を踏み入れた存在を、奇妙な幻惑へと誘い込む。
光宿したキノコから、ふわりふわりと胞子が舞い上がる。何かを求めるように漂うと、樹々から滴る樹液に吸着されてゆく。二つの要素が混ざり合い、特殊な変質が始まると、琥珀のような結晶へと変化する。その変性過程では、奇妙な副産物が生み出される。それは、甘味と渋味が複雑に入り交じり合った芳香。
微かに灯された光は、決して出口へと導くことはない。むしろ、更なる奥深き領域へと招き入れるための、邪悪な誘導ともいえるだろう。光源から滲み溢れる薫香が、妖しげな幻惑をもたらすと、抜けることのできない深みに陥ってしまうのだ。
薄光に照らされた一角には、白灰色の枯れ枝のようなものが散らばっていた。暗緑に塗り潰された樹海には、なんとも不釣り合いな色調だといえる。しかし、この場違いな彩りは、樹海を構成する象徴物の一つだった。怨念が滲む白灰の残骸が意味するのは、愚かしくも深淵に足を踏み入れた存在の成れの果て。どれだけ樹海が恐れられていたとしても、希少なキノコや樹香の採集を目的として、不用意に立ち入る者が現れる。あちらこちらに散らばる灰白色の枯れ枝からは、残り香のように漂う怨念の残滓が滲んでいた。
自らの意志で迷宮たる樹海に立ち入ったにも拘わらず、脱出できずに無惨に朽ち果てた愚か者。それらの救いようのない悍ましい嘆きが、至るところに溢れている。自業自得の身勝手な怨嗟が幾重にも重なって、侵入を固く拒むような禍々しき調べが紡がれる。その残響が生み出す瘴気によって、磁場が歪み乱れされていた。
幾層にも堆積された怨念が餌となり、時代問わずに奇妙な怪奇談が延々と紡がれる。そして、更なる狂気が捏造されては語り継がれ、新たな訓話が伝播する。昔々の彼方から、山奥に秘匿された樹海は冥府に通じる禁足地として、絶えず忌避され続けていた。
樹木の間を縫うように、ふらりと影が揺れている。影絵のような印象で、物音ひとつ立てずに揺れ動く影は、樹海の至るところに現れては消えてゆく。ふわりと朧げな光を帯びた胞子が漂うと、廃墟を彷徨う亡霊じみた存在の素性が露にされてゆく。その正体は動物でもなければ、不用意に足を踏み入れた生け贄たる侵入者でもない。不気味な律動を繰り返す影の正体は、この樹海特有の樹木。音を立てることもなく、ゆっくりと厳かに歩く樹木が姿を見せると、やがては暗がりの奥へと消えてゆく。
見方によっては実に異様な光景だ。芽吹いた場所から動くことなく成長を遂げる大樹が、うぞうぞと太い根を露出させて歩いている。しかし、この森では何も珍しいことではない。ごく当たり前の現象であるかのように、薄闇に塗り潰された世界には、不気味な光景が見え隠れしている。至るところに蠢いているのは、奇妙な徘徊を続ける樹木の数々だった。
その奇妙奇怪な存在は、この樹海を根城にする住人––––歩行樹と呼ばれる樹木。鬱蒼たる樹海の番人として君臨する歩行樹は、遥か昔からこの土地を頑なに護り続けている。みだりに足を踏み入れる者が現れたならば、有無を言わさずに襲い掛かる。そして、生け贄として容赦なく、全てを喰らい尽くす。
捕食された対象は、容易く息絶えることはなく、極めて長い時間をかけて消化される。全てを吸い取られ尽くすまでは、獲物は樹内で強制的に生き存えることになる……との説もある。未だに歩行樹の生態は解明されていない。消化吸収過程にまつわる仮説は、諸説入り乱れてはいるものの、その多くは次のかたちへと帰結する。
たとえ喰われたとしても、被食者は決して朽ち絶えることもできずに、無理矢理に意識を繋ぎ止められる。そして、悶絶に満ちた後悔に焼かれながらも、じわじわと吸収されゆく。最終的に消化しきれなかった部位の残骸が排出されることで、灰白の彩りが大地に残される。
監獄と化した歩行樹の内部では、強烈な意識の変異が加速され、時間感覚が酷く歪められてしまう。つまりは、寿命を遥かに超えた久遠の罠に囚われて、地獄さえも生温い苛烈極まりない拷問が行われるのだ。麓に住まう者たちの間では、このようなお伽話が語り継がれていた。樹海の最たる脅威として恐れられた歩行樹は、ただ黙々と厳かな巡礼者のように歩き続けては、どこかに姿を消してゆく。
樹海に潜む獰猛な捕食者は、歩行樹だけではない。他にも狩りに勤しむ者が、大地に触手を伸ばしていた。それは、ひと目では苔と見分けのつかない形状の、所々に散見する青緑色のキノコ。苔との最たる違いは、着生対象が明確に異なる点にある。その事実を示すように、青紫色のキノコは何かを覆い包むようにして、怪しげな蠢動を続けていた。どろりと蕩けた土気色の物体が見え隠れると、歪み狂った怨念が虚空に滲み溶けてゆく。
極めて強い毒性を持つ青紫色のキノコは、死霊の茸と呼称されていた。その名称が示すように、強烈な毒性を持つ菌糸を捕食対象に寄生させては、時間をかけて破滅へと追い込む性質がある。そして、獲物を分解する過程において、更に凶悪な毒を育むことも大きな特徴の一つだった。
今まさに、愚かな侵入者が死霊の茸の餌食とされていた。未だに新鮮さの残る亡骸には、次々と青緑色の菌糸がにじり寄っては、ぞわりぞわりと増殖を続けていた。菌糸に覆い尽くされた表皮には、脈打つ血管のような不気味な躍動感に満ちた蠢動が始まっていた。それはまるで、朽ちた肉体に新たな息吹を灯すような、邪悪な魔術儀式そのものだ。
大量の菌糸が着生した亡骸は、新たな苗床としての役割を与えられる。やがて充分な培養を済ませると、自らの意志を持つように大地を這いながら、生育に最適な環境への移動を始める。適所で十分な成長を遂げると、芳醇な甘い蜜を思わせる香りを漂わせて、新たな獲物を誘い込む。
魅力溢れる香りに誘われて、素手で触れてしまおうものなら、強烈な炎症や外皮の融解に見舞われて、瞬く間に昏睡状態に陥ってしまう。樹海に侵入した愚か者は、魅力溢れる香りに誘われて、苔に扮した死霊の茸に手を伸ばす。何も気付くことなく易々と、自らの命を餌食として差し渡す行為が始まると、いつの間にかキノコに寄生されてしまう。そして、苗床として役割を享受して、この地で人知れずに生涯の幕を引く。
樹海を彩る風景には、他では採ることのできない希少な品々が隠されている。特殊なキノコや苔類、剥がれ落ちた樹皮や結晶化した樹蜜など……挙げればきりがないほどに、珍品の宝庫となっている。そのような理由があってのことか、採取を目的とした侵入者が後を絶つことはない。それらは例外なく、樹海の供物として命を散らせて朽ちて果てる。虚しき結末を迎えることもまた、禁足地たる樹海の摂理なのだ。
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