6
円やかな螺旋を描きながら、人魚は夢の奥底へと向かっていた。蜜が蕩けてゆくように、崩れ溶けてゆく意識に揺らぐ円環が、次なる世界に通じる小道へと変容を遂げてゆく。流れ進みゆく道筋は、皓き闇に塗り潰された一本道そのものだった。道ゆく最中に現れるのは、ゆらりゆらりと儚げな、虚ろに暈された浅き夢の断片ばかり。生じては薄れ消えてゆき、幾重にも重なりあっては次の場面へと続いてゆく。そんな朧げな夢の残滓を見送りながらも、新たな欠片を為すがままに受け入れる。
変遷を続ける幻影に揺られながらも、果てなき彼方へと通じる深淵を求めるようにして、茫然と沈み落ちてゆく。あらゆる境界が暈されてゆく中で、人魚は絶え間なき没入に全て委ねていた。薄闇に染まる隧道を、ようやく完全に突き抜ける。辿り着いた最果ては、夢の最奥たる一点––––全てが帰結する終端たる領域。
歓迎の意図を示すような印象で、柔らかな微風が吹き込んだ。優美な香りが髪を撫で付けると、類する記憶の断片が波打つように押し寄せる。馴染み深い彩りは、愛おしき花々の香気によく似ていた。芳しき抱擁に心を傾けると、虚ろげに崩れていた意識が、次々と結い直されてゆく。溢れ漂う香りに導かれて、人魚はゆっくりと瞼を持ち上げた。露にされた瞳に映し出されたのは、柔らかな金色の輝き。波打つ光が押し寄せると、焦点の崩れた瞳に確かな息吹が灯される。ありとあらゆる感覚が、新たな世界に順応してゆくと、どこからともなく薄金に染まる霧が忍び寄ってきた。
溢れ漂う金の粒子に飲まれると、更なる安寧に満たされてゆく。思わず瞼を落としそうになるものの、霧の彼方に覗き見える風景に、不意に意識を奪われる。心綻ぶ感覚に蕩けながらも、人魚は何かを探し求めるかのように、薄れ晴れゆく霧を茫然と見定めた。
露にされてゆく光景は、金色に染まる美しき泉。この一帯こそが、夢の最奥たる極地––––心奥底に繋がる抜け道の果ての聖域––––。心奥底の原風景たる領域に、またこうして戻ってこれたことは、何にも変え難い幸福だった。蕩けた心に寄り添うように、優しげな微風が流れ込む。ふわりと髪が舞い上がると、絹帯のような揺らぎが前方から忍び寄ってくる。その印象を捉えた瞬間に、僅かに熱を帯びた一拍の鼓動が、そっと胸を打ち鳴らした。
自らの心拍が及ぼした振動ではあるものの、華奢な身体には強すぎる衝撃だった。内なる衝動に堪えかねて、人魚は崩れ落ちそうになってしまう。すると、そっと優しく支えるように、胸の奥から不可視の波紋が滲み出す。前方から迫る揺らぎを前にして、騒めく心音は乱れるばかりだが、内側から溢れる温もりによって、穏やかな周期の律動に整えられてゆく。
内なる安寧に支えられた人魚は、徐々に平静を取り戻そうとしていた。緊張と入れ替わるように訪れた期待感が、脈打つ鼓動を落ち着かせた。準備が整えられた状況に応えるかのように、煌めく霧の粒子に秘匿された揺らぎの正体が、ゆっくりと明るみにされてゆく。
まず最初に露にされたのは、きらりと煌めく白金色の細波。滑らかな絹糸のような印象の、長く美しき髪が舞い揺れる。上体を包み隠すヴェールのような煌めきが、ゆらりと風にたなびくと、何とも美しき香りが立ち昇る。滲み溢れる優美な波紋に導かれ、徐々に秘められた本質に光が灯されてゆく。
あまりにも神々しい姿を前にして、人魚は甘く切なき金縛りに捕われた。見開かれた瞳に突き付けられたのは、穢れ知らない天使のような存在。比類なきまでに美しき花のような顔立ちは、なんとも幽艶な彩りを滲ませていた。手を触れてしまえば、すぐさま壊れてしまいそうな儚さは、噎せ返ってしまいそうなほどに麗しい。その礎に築かれているのは、確固たる不動の息吹の加護に恵まれた、気高くも荘厳な魂の輝き。後光のように滲む煌めきには、儚き優美な彩りと、永劫不変の金剛たる在り方が共存していた。
溢れ迸る存在感は、全てを超越した領域から注ぐ光にも似ていた。あまりにも穏やかな微笑みには、穢れ知らずでありながらも、あらゆる苦しみを超越したような悲しみが滲んでいた。姿を現した淑女たる輝きは、大切な存在にとてもよく似ていた。その姿は、湖底洞窟に祀られた女神の彫刻の、生き写しの姿そのものだった。
ゆらりと流れる微風のように、優しげな掌が差し伸べられた。繊細な指先が人魚の額に触れた瞬間に、意識の奥底を揺さぶるほどの、不可視の波紋が轟いた。円環を描き押し寄せる細波を通じて、女神たる存在の念が脳裏に直接届けられてゆく。
人魚は言葉にし難い思いを受け取ると、快く応じるように念を送り返した。互いが交す思いの残滓が花弁のごとく舞い散ると、雫と化して金色の水面に滴り落ちてゆく。弾け迸る煌めきが、潤い溢れる水の王冠を飾り立て、途端に崩れ散っては消えてゆく。散りゆく欠片が生み出すのは、忘れ形見のような甘く穏やかな波紋。際限なき輝きに染まる泉には、幾重にも重なり合った円環が、幻惑の花々のような彩りを滲ませていた。
遠く彼方へと向かう細波が、水面に揺れる花を擽った。朧げな霧に暈された花々は、薄金色に染まりながらも、滑らかな円葉を輝かせていた。葉々の隙間に揺らぐのは、天に掲げられた儀槍たる佇まいの花茎。その先端を彩るようにして、なんとも淑やかな花が咲いていた。波紋の慰撫に揺れるたびに、花々の輝きは制限なく増してゆく。そして、淑やかな対話に耽る二人を慈しむように、甘く切なげな香りを解き放つ。
どこからともなく微風が吹き込むと、花々が求める先へと香りが運ばれる。思いが届けられた先は、水面彼方を超えた岸辺。その一角には、先とは異なる美しき花々が咲いていた。大地に根を下ろし、繊細な茎や枝を伸ばす姿は、何とも気高き佇まい。あらゆる接触を拒むかのように、鋭利な棘の数々が枝を覆い尽くすさまは、近寄り難き印象を助長させている。しかし、本質に秘匿された健気さを、完全に包み隠すことは難しい。その事実を伝えるかのように、瑞々しい霧の粒子をまとう葉々は、凛と素直に輝いていた。そして、一筋縄とはいかない複雑な性質を予感させる枝先には、あまりにも麗しき金色の花々が咲いていた。
微風に届けられた香りを大切に抱き締めるように、金色の花々は揺れていた。そして、呼びかけに応じるかのごとく、麗しくも気紛れな香気を漂わせた。流れ漂う微風が、二つの香りを混ぜ合わせるように、穏やかな螺旋を描き出してゆく。勢いを増してゆく対流に運ばれて、花々の思いは遠く彼方へと広がっていった。
淡い霧に包まれた二つの花々は、香り運び去りゆく微風に思いを托すと、ひっそりとさり気なく輝いた。たとえ離れた場所に咲いていたとしても、互いの思いは完全に一致している。その思い……凝縮された慈愛の結晶たる煌めきは、泉の中央で対峙する二人のために捧げる祈り。幾重にも混ざり合わさった芳香が、確かに届けられることを願うように、花々は歌い続けていた。
香り溢れる微風に包まれて、泉の中央では言葉交わすことなき対話が続けられていた。女神は安らかに微笑みながらも、人魚を愛おしそうに見つめていた。そっと掌を差し伸べて、黒き潤いに染まる髪を撫で付ける。うっとりと蕩ける人魚は、為すがままに女神の慰撫に身を委ねた。女神の掌が空を薙ぐたびに、きらり煌めく光が溢れ出す。その不思議な印象を前にして、人魚はただ茫然と見蕩れるばかりだった。
やがて女神の掌は、金の粒子を漂わせながらも、人魚の元から離れていった。もの悲しげな黒紫色に染まる瞳が、縋り付くように去りゆく掌を追い掛ける。緩やかな円環を描く金粉が、ふわりふわりと虚空に舞い散ってゆく。その奥に覗き見えるのは、慈しみ溢れる柔らかな微笑み。
何も不安になることはない……と言いたげな印象で、潤沢な金粉が溢れ出す。金の粒子が織り成す螺旋の中心には、祈り耽るように掌を結ぶ女神の姿があった。恭しくも祝福の印を結ぶ姿は、なんとも神々しき輝きに満ち溢れていた。根源に灯された原初の光源たる存在を前にして、人魚は縋り付くように茫然と、潤い溢れる眼差しで見つめていた。
水面に振り落ちた金の欠片の数々が、幾重にも波紋を広げては、遠く彼方へと去ってゆく。留まることなき細波は、女神の煌めきを中心として、どこまでも彼方へと広がっていった。揺らぎの源を生み出す一点が、眩い光を帯びてゆく。その中心たる起点には、虚空を撫でる女神の掌が揺れていた。溢れる光が確かな意味を帯びてゆく。思わず人魚はうっとりと、溺れ飲まれて捕われる。恍惚と震える瞳に映し出された光源は、女神がその手に携えた一輪の花。女神は慈愛に満ち溢れた微笑みを添えて、そっと優しく人魚の手を取った。そして、光溢れる一輪の花を、捧げ托すように手渡した。
差し渡された一輪の花から、ゆっくりと光の粒子が薄れてゆく。全てを塗り潰すほどの煌めきが、ふわりと静かに和らぐと、徐々にその形質が露なものにされてゆく。ぼんやりと光が薄まってゆく様子は、夕を超えて沈みゆく光球のように、新たなる風景を炙り出す。人魚は愛おしそうにまじまじと、両手に携えた一輪の花を見つめていた。明らかにされた花の正体は、金色に輝く不思議な薔薇。花弁を染める光が溢れると、なんとも麗しき香りが迸る。奥深き芳香に宿された願望が、遮るものなく心奥底へと浸透する。その感覚に震える人魚は、金縛りに捕われたかのように、痺れ患い噎せ返る。
容赦なきまでに押し寄せる芳香が、とろりと柔らかな対流を描き出す。どこまでも深くへと溶け込んでゆく思惑に応えるように、心震わせるほどの波紋が深淵から滲み出してゆく。意識が途切れそうになりつつも、それを拒もうとする思惑が、持ち堪えようと波を打つ。沈み落ちかけた瞼を押し開けようと、感極まった潤いが止めどなきまでに溢れ出してゆく。
あまりに強い衝動に耐え忍ぶことは、できるはずもなかった。堰き止めていたはずの潤いが、悪戯に視界を暈し霞ませる。溢れる雫に乱れ煌めく輝きが、視界を朧げに歪ませた。ぽろりぽろりと大粒の涙を溢しながらも、人魚は深い感謝の念を抱き締めた。心震わせる思いを伝えようにも、溢れる感情によって全てを攫い尽されてしまった状況では、平静を保つことはできなかった。内側から溢れ出す衝動に委ねるように、真摯な祈りを結んでは、心余すことなく震わせる。祈りは音なき歌と化し、新たなる律動を刻む波紋へと姿を変えてゆく。
人魚の胸元に揺れる一輪の薔薇は、膨大な光に染まりかけていた。真摯な祈りに同調するように輝く姿は、何も増して神々しき佇まいを見せ付けた。その様子を見守る女神は、感極まったように綻びながらも、祝福を告げるように膨大な金粉を振り撒いた。
霧のように漂う粒子の数々が、はらりはらりと舞い散る花弁のように、水面に色を滲ませる。振り落ちた数多の煌めきは、音もなく水に溶けてゆき、新たな姿へと変容を遂げてゆく。それが意味する形象は、惜しみなき慈愛を塗り広げてゆくような、金色に染まる波紋の数々だった。光溢れる細波は、二人の思いを携えて、遥か彼方に通じる旅路への軌道を描き出してゆく。
光波と化した潤いは、泉を超えて下流へと流れ去っていった。二人が交した祈りの混淆は、果てなき旅路を描きながらも、あらゆる領域を光で包み込んでゆく。それは、今この瞬間を起点とした、久遠の彼方を貫く煌めきそのものだった。全てを覆い尽くそうとする輝きが、人魚が携えた薔薇を中心として、どこまでも彼方を目指すように溢れ出していった。
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