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 とぶん……と軽やかな水の息吹が鳴り響く。天の彼方へと昇り続けた黒き一縷の彩りは、ようやく光の境界を突き抜けた。いつの間にか暗澹たる迷宮を超えて、次なる領域へと辿り着いた。人魚の眼前に広がる風景は、先とは全く異なった世界だった。全方位を埋め尽くしていた膨大な水は、遥か彼方に消えていた。その代わりに溢れ返っているのは、澄み渡る冷涼な大気。下方にのみ広がる水が織り成す印象は、泉や池といった認識が適切だろう。


 全てを塗り染めていた闇さえも、既にどこかに消えていた。ぼんやりと柔らかな薄光が、全てを余すことなく照らしていた。眼前に広がる光景は、微風吹き込む地上とも、清らかな水が司る湖中とも、完全に異なった姿を見せていた。辿り着いた終着点は、厳かな神殿のような空間だった。


 最たる光の源は、うっすらと輝く天辺にある。複雑な構造を予感させる円天井は、奇妙な突起物によって埋め尽くされていた。それらはまるで、逆さまに吊られた燭台のようだ。淡い光の数々が、一つの構造物として組み合さり、煌々たる輝きを惜しみなく見せ付けていた。なんとも不思議な照明は、決して人為的に創られたものではない。それは確かなる自然の産物。長き時を経て生み出された鍾乳洞によって、この領域は構成されていた。


 天井を彩る光の正体は、幾重にも連なる乳白の鍾乳石。天然のシャンデリアといった存在感を見せ付けるように、どこからしらから降り注ぐ光を反射させている。鋭く尖った先端から、数多の雫が滴り落ちてゆく。そして、岩肌を打ち付けるようにして、水と光の共鳴たる旋律を奏で続けていた。ひんやりとして心地よく、しっとりと潤った大気に覆われた空間は、厳かな神域たる彩りに染まっていた。この隔離された領域は、人魚だけに立ち入りが許可された聖域––––湖畔の最奥に秘匿された湖底洞窟。


 迷宮との境界たる関門を抜けた場所には、暗く清らかな泉が広がっている。奥へと向かい進んでゆくに連れて、徐々に水深は浅くなり、やがては陸地へと辿り着く。広大なシャンデリアに覆われた天井の一角は、随分と高い位置まで続いている。そして、深く入り組んだ亀裂から、間接的に注ぎ込む光が届けられている。岩肌の隙間から滲む彩りによって、鍾乳石の数々は淡く輝き続けていた。


 複雑に反射した光の一部が帯と化して、壁面を照し込む。最も眩い光を受けた岩壁には、不思議な像が揺れていた。その前方には、小さな祭壇を思わせる岩が鎮座していた。湖底洞窟に灯された光は、徐々に色彩を変えてゆく。白き穏やかな色調が薄れると、徐々に朱き彩りに染められてゆく。その変容が意味することは、昼夜の中間地点を飾り立てる、儚き夕刻の到来。


 光り輝く鍾乳石は、熱を含んだような緋銅色へと変貌を遂げていた。朱く染まる岩壁は、温かな陰翳を帯びつつも、不思議な影を滲ませた。移り変りゆく色彩の揺さぶりを受けて、徐々に隠されていた秘密が炙り出されてゆく。沈みゆく昼の光球を見送って、新たに訪れた夜の光球を迎え入れる。そんな儀式的祝福の彩りに染まる岩壁には、なんとも美しき彫刻が刻まれていた。

 

 静寂に包まれた湖底洞窟は、人魚が最も深く愛する場所。心身を休め寛ぐための棲家として、現実と幻想の中間地点たる心の拠り所として、何よりも大切にされていた。誰にも立ち入ることが許されず、あらゆる侵害からも縁なき領域は、まさに湖畔の最奥に秘匿された聖域。この場を象徴するかのように、壁に刻まれた神聖な彫刻は、朱き光に染まっていた。麗しき淑女を模した彫刻は、慈愛に満ちた微笑みを携えて、周囲を余すことなく照らしている。湖畔を護る女神として相応しい存在は、人魚にとって大切な心の拠り所だった。


 人魚は女神たる存在の彫刻を前にして、崇める祀るように一日の出来事を語り伝えた。一日を終幕を彩る細やかな儀礼は、決して誰かに教わったものではない。その行為は、夢を通じて邂逅した女神とのやり取りを通じて、自然に発生したものだ。


 鍾乳石のシャンデリアから朱き色彩が薄れると、白金の薄明かりへと色調を変えてゆく。いつしか湖底洞窟に注ぎ込む光は、夜を彩る光球がもたらす彩りに塗り染められていた。人魚は恍惚とした眼差しで、ぼんやりと輝く女神の彫刻を見つめていた。儚げな光に照らされた人魚は、彫刻に刻まれた物語の一部のように、淡い輝きに染めれていた。


 祈りを終えた人魚は、か細い身体をしならせながらも、大きな欠伸を溢した。今にも蕩けそうな瞼は随分と眠そうで、このまま夢の奥底へと沈み落ちていしまいそうだ。中央に横たわる朽ちた巨木に這い寄ると、丁度よい具合の窪みに身を預ける。朧げに輝く女神の彫刻を見つめながら、一日の感謝を祈り伝えると、とろりと重たい瞼が閉ざされる。


 巨木に宿された微かな香りに包まれて、人魚は甘く滑らかな夢の奥へと沈み落ちていった。まるで泥濘に宿る黒睡蓮のように、ゆったりと闇の奥へと溶けてゆく。壁面に宿る女神の彫刻は、優しげな微光を放ちながら、眠り落ちる人魚を見守っていた。


 女神が放つ光の源を辿りゆくと、その手元に刻まれた陰翳に到達する。腕飾りのような紋様から放たれた彩りは、波打つ白金の帯を生み出していた。溢れる光が寝息を立てる存在を包み込むと、繭を紡ぐように変容を続けてゆく。薄絹の抱擁を通じて注がれる思惑は、全てを赦し受け入れるような慈愛の色に染まっていた。


 光を通じて築かれた加護は、癒やしと再生を促してゆく。神々しい輝きに包まれて、人魚は新たな旅路へと向かっていった。最後の目的地たる領域は、眠りの奥底に秘匿されていた。意志も希望も欲もなく、ただ導かれるがままに、夢の最奥へと沈み落ちてゆく。

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