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 流れのままに身を委ねて、人魚はどこまでも深くへと潜り落ちてゆく。柔らかな水に包み込まれる感覚が、意識さえもを円やかな潤いに染めてゆくと、あらゆる境界が朧げに暈される。陰りを帯びた深淵に向かうに連れて、黒き一縷の彩りは、湖と一体化するように薄闇に溶けていった。


 為すがままの没入を続ける肉体は、やがて意志を取り戻す。息吹灯された機構が新たな律動を刻むように、黒き尾鰭はしなやかに水を薙ぐ。人魚は自ら意志によって、流れに委ねて踊るように泳ぎ始めた。流し引かれる黒き軌道の彩りは、夜空を駆ける彗星のように煌めいていた。それに追従するように、無数の星屑たる輝きが集まってくる。そして、湖中に流れ落ちてゆく流星群たる光景が、いつの間にか描き出されていった。


 どこからともなく訪れた数多の魚と語らいながら、人魚はどこまでも深い領域に向かっていた。新たに訪れた存在を受け入れて、去りゆく存在を見送りながらも、流れのままに潜水を続けてゆく。先行くほどに次々と、一匹、また一匹と魚たちは元の居場所へと帰ってゆく。やがて、ともに長き道のりを泳き続けた美しき鱗を誇る魚もまた、別れを告げて上空彼方へと去っていった。ひとり残された人魚の行く先には、とろりと滑らかな薄闇が待ち受けていた。


 前方彼方に覗き見える薄明かりは、招き入れるかのように明滅を続けている。目を凝らすまでもなく理解できる光源の正体は、岩陰に潜む煌びやかな貝。勢いを緩めて静止した人魚は、ぼんやりと輝く貝の姿に見蕩れていた。すると、気配さえも示さずに、不思議な揺らぎが忍び寄ってきた。湖底の風景を暈すような薄膜が、ゆらりゆらりと揺れている。奇妙な幻影が見せるのは、光と水の交錯が生み出した悪戯のようだ。ただの幻か、それとも湖底に宿る幽霊なのか……奇妙な半透明の薄膜が、もの言いたげな雰囲気で、ゆらりゆらりと距離を詰めてゆく。


 岩陰に脈打つ光に照らされて、奇妙な揺らぎの全貌が明らにされてゆく。人懐っこそうに擦り寄る半透明の存在は、湖中を揺蕩うように流れる大きな海月。その姿を目の当たりにすると、人魚は安らかに微笑みながらも、大切なぬいぐるみを慈しむように身を寄せた。湖底に辿り着いた人魚は、この一帯に住まう者たちから歓迎されていた。自由気ままに魚たちと泳ぎ耽っては、貝に混ざって静かなる瞑想に没頭する。そして、疲れたときには海月の傘に寝そべって、ゆったりと昼寝に耽る。人魚は悠々と穏やかに、いつもと変わらぬ穏やかな昼下がりを楽しんでいた。


 ある時、ともに泳ぎ過ごした一匹の魚が、姿かたちを変えてゆく。まるで、内側から光を帯びてゆくように、ぼんやりと全身を輝かせた。なんとも奇妙なその姿は、神々しいまでに美しい。留まることなき変容が、次々と加速してゆくと、更に不思議な展開へと続く。溢れるばかりの輝きが、表皮と水の境界を暈して乱して塗り潰す。魚だった存在は、光との同化を続けながらも実体を失っていった。元の姿が完全に崩れると、最後には光を帯びた泡と化して、完全なる変容を成し遂げた。そして、ふわりふわりと舞い上がると、言葉にならない一筆のような念を滲ませた。別れを告げた光泡は、天上彼方へと昇り去っていった。


 去りゆく光を見送りながら、人魚は残された思いを大切に抱き締めた。そして、旅の無事を願うように、祈り耽りながらも内なる安寧に縋り付く。温もり溢れる祈念は、意図することなく思念の歌へと形質を変えてゆく。人魚を中心とした柔らかな振動が生じると、湖全体が穏やかな波に包まれてゆく。細波のように押し寄せる律動は、揺り籠のような安らぎを帯びていた。甘い揺らぎが誘う先は、安寧に満ち溢れた夢の領域への入口。穏やかな流れが漂うと、全てが余すことなく包み込まれては、誰もが抵抗もできずに虜にされてゆく。


 湖底に住まう者たちは、いつの間にか眠り落ちていた。皆が揃って向かった先は、共通の夢が織り成す不思議な世界。溢れ漂う慈愛の波紋に揺られては、時を遡るように原初の湖畔へと舞い戻る。人魚の歌に包まれた湖は、安寧に満ちた温もりに包まれて、甘く優雅な昼寝に耽り落ちていった。


 穏やかな安眠風景を邪魔しないように、人魚は小波さえも立てずに流れ去っていった。ひとり静かに向かう先は、最も深い静寂に包まれた領域。仄かな光のみが届けられた湖底最深部は、時が止まったかのように静止していた。微風のように流れる水の囁きだけが、ただ唯一の律動を与えていた。とろりと緩やかに髪を撫で付ける感覚が、さり気なくも行く先を指し示す。流れ押し寄せる水の軌跡を辿りゆくように、人魚は静かに泳ぎ去ってゆく。やがて、辿り着いた終着点には、沈み朽ちた大木が待ち受けていた。


 阻み閉ざされた暗がりは、文字通りの行き止まり。しかし、この先に道が続いていることを示すように、流れる水の囁きが伝わってきた。大木と岩肌の隙間を覗き込むようにして、人魚はゆらりと身を乗り出した。暗がりに輝く瞳には、影に隠れた小さな岩穴が映し出されていた。辛うじて入り込めるほどの空間は、行く先を遮断するように、ねっとりと深い闇に覆われている。暗澹とした狭き門は、異界へと通じる入口とも言えるほどに、深く重たく閉ざされてた。それでも人魚は一切躊躇することもなく、闇の奥へと身を投じた。


 忍び込むように流れ抜けた先には、全方位を暗黒に塗り潰された隧道が広がっていた。全てが闇に閉ざされた領域は、なんとも心細くて不気味な色が溢れていた。それでも人魚は臆することもなく、奥へ奥へと導きのままに流れていった。


 狭く仄暗き岩穴は、延々と果てしなく続いた。立ち込める雰囲気は、冥府へと通じる洞窟そのものだった。それでも人魚は恐れることもなければ、狼狽えることもなかった。果てなき彼方を目指しては、真っ直ぐに続く一本道を潜り続けて超えてゆく。闇に塗り潰された水の隧道は、進むに連れて迷宮たる在り方へと姿を変えてゆく。先行くほどに複雑な分岐が生じると、方向感覚を狂わせるほどの混沌が描かれる。絶え間なき道筋は、決して途絶えることもなく、更なる深みへと続く。


 黒き艶やかな彩りは、臆することなくしなやかに、闇に塗り潰された領域を抜けていった。自由自在に虚空を舞うようにして、延々と複雑な道のりを超えてゆく。長くも短き時を経て、前方彼方から姿を表したのは、ほんの僅かな一点の光だった。進むに連れて増してゆく光量が、微かな紫色を帯びた黒き瞳を輝かせる。離れた二つの光源が、一つに引き合ってゆくように、遊泳の勢いが増してゆく。光が重なる一点に待ち受けていたのは、長くも短き旅路の終端。

 

 ようやく辿り着いた領域は、岩壁に覆われた行き止まり。ここが洞窟の最奥であり、これ以上の先に進む道は、もう残されていなかった。全てが静止した終端に鎮座する風景は、複雑な描写過程を経て完成された抽象絵画そのものだった。


 微かに届けられた光の織り成す陰翳が、怪しき構図を際立たせる。全方位を覆い尽くすのは、幻惑の煙を焚き付けるように流れ蠢く膨大な水。幻惑の煙を焚き付けるように、流れ蠢く水の層によって、余すことなく全方位が覆い尽されていた。波打つ水の躍動を飾り彩る輝きが、どこかしらから注がれていた。その光こそが、完全なる静寂が支配する領域に、確かな揺らぎをもたらす唯一の脈動。


 茫然と虚ろげな印象で、禍々しくも神聖な岩壁を見つめる瞳には、もう一つの確かなる象徴が映し出されていた。奇妙な存在感を示す煌めきは、遥か上方から降り注ぐ朧月のような光。その一点に意識の全てを預けると、空間を乱し狂わせる揺らぎさえも、忘却の彼方に薄れ消えていった。人魚は円形に照射された光帯に照らされて、茫然と祈りを結ぶかのように、天上彼方に宿る煌めきを見つめていた。


 最後に残された一本の道は、光差し込む上空へと続く水路。人魚は流れに導かれるようにして、上へ上へと向かい昇り泳いでいった。振り注ぐ光に照らされて、滑らかな上昇を続ける姿は、天へと帰る魂のようだ。流れ昇りゆく黒絹は、幽玄かつ儚げな印象で、光との同化を続けてゆく。やがて、全てが膨大な光に飲み込まれ、姿かたちを放棄するように彼方の一点に消えていった。

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