第5話
元の体は戻らないと半ば覚悟を決めていたのだが…飛行機を降りてしばらくしたら戻った。
幸いにもその時にはすでに女子トイレだ。いや、幸いなのか?女子トイレにいる男子大学生が見られたらどうなる?
「『”optim”
「Debt: Present 30 MJ within 7 days. Alcohol(LHV) or Electricity.」
中国語の表記、2外で中国語を履修していた私には…わからなかった。
状況の打開を目指して、スキルのUIを呼び出してみる。
Slot 1: M 矢崎遼
Slot 2: F Tmp.Yui, GeneSeed“31415-9265-35-A…”
よかった、表示はよくわからないが、swapはできるようだ。
とりあえず犯罪者になる前に、女子に戻しておこう。それにしても、かわいい。ナニとは言わないが抜ける。
多目的トイレに行こう。ナニをするわけじゃない。男に戻らないと入国審査が怖いからな。
さて、空港を出たら燃料用アルコールかジエチレングリコール一択だ。酒は高すぎるし、電気は遅すぎる。
多目的トイレに入り、着替えて元の体にSwapをする。体は戻ったが「Face optim in progress ETA until 90%: 5 min. Later than that, it takes 24 hours to be 100%」と言われた。認知的不協和で頭が痛い。短期間に複数回のSwapをしたせいか、+1 MJともポップアップに言われた。
副産物としてヒゲと体毛が産毛レベルになっていた。感覚器としては却って強力なのかもしれない。
さて、入国審査を。
*
入国審査カウンターの列は想像より短かった。放射線騒ぎでキャンセルが続出した影響だろう。頭上のLEDがビザ無し入国用の緑色を点滅させ、次々に旅客を飲み込んでいく。
私は列の最後尾につき、バッグのストラップを握る。左手の母指球に走る触覚が妙に鮮明だ。産毛がレーダーのように空気の動きを拾っている。コスト30 MJという債務を意識すると、五感すら貸し出し担保に思えてくる。
前の客が終わり、私は呼ばれた。ガラス越しの係官は黒縁眼鏡の若い女性。無表情だが、光沢のない唇が苛立ちを隠していない。私はパスポートを差し出し、背を伸ばす。
「旅の目的は?」
「大学の卒業研究で、電子部品の市場調査を」
「滞在は?」
「5日間。羅湖、華強北周辺です」
係官は端末を操作し、カメラをこちらへ向けた。顔最適化は90 %まで進んでいるはずだが、輪郭が微妙に熱を帯びている気がする。レンズが赤く瞬き、数秒。
「目線はそのまま」
シャッター音の代わりに小さな電子チャイムが鳴る。係官は画像とパスポート写真を比較し、眉をわずかにひそめた。
——頼む。10 %のズレなど統計誤差の範囲であってくれ。
彼女は端末に何かを入力し、印刷された入国カードにスタンプを押した。
「Welcome to China.
空気が肺から抜ける。私は深く頭を下げ、バッグを抱え直した。
背後でスタンプ音が続く中、私は到着ロビーへ出た。深圳宝安国際空港の天井は曲率を持つ鋼とガラスの格子で、夜の湿気を含んだ光が拡散反射している。スマホを起動。WeChatアプリを初回設定。日本のSIMはデータローミングが高いので、コンビニで買うローカルSIMまでは無料Wi-Fiに頼る。
真琴からメッセージ。
「問題なく入国?」
「今通過した。顔が少し違ったかもしれないがバレてない」
「顔違うって何したのw」
「説明すると長い。また後で」
画面右上のバッテリー残量は79 %。機内モードを切り、VPNスイッチを入れる。東京リージョンのWireGuardが応答。パケット往復遅延は230 ms。許容範囲。
——次は借金返済計画だ。
30 MJを7日。エタノールの低位発熱量(LHV)は26.8 MJ/kg。単純計算で1.12 kg。密度0.79だから1.4 L弱。中国の消毒用無水アルコール(75 %)なら2 L強。価格は1本500 mlで18元前後。税込みで約36元/ℓ。合計72元。学生の旅費としては痛いが払えない額ではない。ジエチレングリコール(DEG)ならLHVが27.0 MJ/kg。ただし毒性が高く、入手は化学試薬店。海外で不用意に買えば通報リスクがある。ここは食品添加物グレードのアルコールで手を打つのが安全だ。
地図アプリで「医用酒精 24小时 机场附近」。検索結果が5 件。最寄りはターミナルC出口から1.2 kmのドラッグストア。営業時間は0-24。バスは今の時間帯は15分ごと。徒歩でも行ける距離だが、荷物を背負って夜道を歩くのは避けたい。
ロビーのATMで200元を引き出す。手数料は25元。拳に現金の重みが伝わる。エネルギーを貨幣に換算し、それを再び化学エネルギーに転換する奇妙な回路。私は自動ドアを抜け、湿った南国の夜気に包まれた。遠くで車のクラクションが鳴り、甘い花の匂いが排気ガスに混じって漂う。
バスターミナルのプラットフォームで、私は隣に並んだ青年に声をかけた。
「不好意思,这辆车去海雅缤纷城吗?」
「去,不过要等十五分钟。」
「謝謝。」
Skillは何もしてくれない。だから自分で道を聞き、時間を潰し、貨幣を燃料に替える。
ベンチに座ると、左手首の内側がチクンとした。UIが脈絡もなくオーバーレイされた。
「Optimization hint: Local energy market detected. Suggest barter → Power bank sale.」
無視。代替案は考えてある。
バスに揺られること8分。車窓に映る都市の輪郭は、LED看板の洪水とスモッグに散るテールライトで、夜というより処理中の基板に近い。停留所の電光掲示が目的地を告げ、私は降車ボタンを押した。
ドラッグストアの自動ドアが開く。白い蛍光灯。レジ奥で店員がスマホを弄っている。棚には布マスク、体温計、ビタミン剤。その一角に整然と並ぶ「医用酒精」の白いボトル。500 ml。私は4本掴んでレジへ。
「一共72块。」
「支付宝可以吗?」
「可以。」
支払いを済ませ、紙袋を受け取る。ボトルがぶつかり、鈍い音がした。ポップアップが浮かぶ。
「Resource registered. Alcohol ethanol ≥75 %. LHV credit 10.7 MJ/瓶.」
——4本で42.8 MJ。債務30 MJ、利息1 MJ。残り11.8 MJはバッファ。よし。
袋をリュックに収めると、背中に重量が増した。量子の借金を背負う姿は滑稽だが、妙に落ち着く。私は歩道を華強北方面へと歩き始めた。片側6車線の幹線道路を渡る歩道橋から、街灯の光がアルミ手すりに反射し、微かな金属音を響かせる。
ふと、視界の端でHUDが瞬く。
「Cost deposit station detected (距離 350 m, 地下1F)」
地下?地図を拡大。電子部品モールの裏手、配送業者用の貨物口。中国語で「危险化学品暂存仓库」とある。危険物の一時保管倉庫。人体にエタノールを注ぐわけにもいかない。どうやって支払う?
沈思。それはSkillではなく私自身の計算だ。燃料用アルコールを発電機で燃やし、電力として納める?だが時間がかかる。あるいは倉庫の危険物受け入れラインに直接投入し、熱回収系で計測されたエンタルピーを自動的に計上するシステムがあるのか。口座に振り込むように熱量を納付する。奇妙な税関だ。
私は足を速める。夜10時を過ぎても街は明るく、スピーカーから広東語の流行曲が漏れる。地下の貨物口には黄色と黒のシマ模様がペイントされ、シャッターは半開き。作業員がフォークリフトを操作している。私は深呼吸し、中国語で話しかけた。
「请问,这里可以处理医用酒精的回收吗?我有四瓶。」
「回收?小量的话自己去那边秤重登记就行。」
作業員は顎で奥を示した。
薄暗い通路の奥、金属製の受付台と電子秤。重量を入力する端末の横には、熱量換算係数の表。私は1本ずつボトルを秤に載せる。
端末が値を読み上げる。
「重量 0.49 kg…录入…换算…热值 13.1 MJ」
1本目だけで予想より高い。どうやら純度が高いらしい。4本で52.4 MJと表示された。端末がQRコードを生成し、上部にこう表示する。
「债务抵扣 30 MJ 成功。余額 22.4 MJ → 个人储蓄。」
ポップアップ。
「Debt cleared. Surplus stored in Slot battery. Thank you for your business.」
私は息を吐いた。Skillは助けてくれなかった。だが人に道を聞き、レジで金を払い、倉庫で手続きをした。全て会話だ。
出口へ戻る途中、作業員が呼び止めた。
「|小伙子,日本人吧?今晚华强北晚上市,你去看看吗?《日本人でしょ?今夜は華強北夜市を見に行くのかい?》」
「
「|放心,警察很多。你要买电子零件,现在打折。《心配するな、警察はたくさんいる。電子部品を買いたいなら、今が売り時だ。》」
私は笑って礼を言った。Skillよりも、こうした何気ない会話がありがたい。
地上に戻ると湿った風が頬を撫でる。東の空に雲が流れ、街の光を受けて鈍く輝いている。コストは払った。残るは“MCU”の解放。そして不可逆に変質しつつある私自身の行方だ。
胸ポケットのスマホが震えた。真琴から。
「無事なら既読だけちょうだい」
私は既読をつけ、写真を一枚添えた。
—華強北の看板群、夜のネオンが歪むように重なり合い、まるで巨大な回路図。
返信がすぐに来る。
「ネオン映え!死ぬなよ!」
私は片手を挙げて街に背中を向け、ネオンの海へ歩き出す。
Skillは何もしてくれない。だから私は歩いて聞き、計り、払う。
30 MJの借金を返済したばかりの足取りは、意外にも軽い。エタノールの揮発臭がリュックから消え、代わりに街の熱と湿気が染み込んでいく。
夜の華強北。LEDの粒が私の網膜を刺激し、産毛のアンテナが風の情報を拾う。誰も観測していないわけではない。私自身が私を観測している。そして観測が世界を書き換える。
“MCU”が解放されるとき、その手応えを確かめるのは私であり、ただの人間だ。Skillではない。会話と計測と支払い。その繰り返しが、量子ゆらぎの荒波を少しずつ平均化し、私の道を描いていく。
立ち並ぶ店のシャッターが上がり、甘い豆乳の匂いが路地へ流れた。私は腹が空いていることに気づいた。債務も返した。あとは腹を満たし、眠る場所を確保し、明日の市場調査に備えるだけだ。
私は小さな屋台に近づき、中国語で声をかける。
「老板,来一碗热豆浆,再加两个油条。」
Skillは沈黙したまま、夜の喧噪に紛れていった。
Experimental、MCU、Skill。 Ozone-ユイ @ozoneAsaiCore
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