第4話

さて、どうしてこんな格好になっているのか説明しよう。

さっきトイレに入ったら「タンクを開けて取り出したものに着替えなさい」というポップアップが現れたのだ。

ああ、着替えたさ着替えたとも。

だが、マスクまで付けて仕舞えばそれが誰だかわかるはずもない。というのは機械の話だ。

「『スキル”optim”を借用しました。』」

“MCU”のポップアップウィンドウと同じデザイン、その中に異なるデザインのウィンドウが収まっている。

さて、どんな格好をしているか説明しよう。ずばり、女の子だ。どう見てもJCである。どうしてロリータなのか。入境で絶対に弾かれる格好だ。

そう思って個室を出るが、鏡に映るのは完璧なJCだった。もっとも、戸籍は完璧じゃないようだが。

…いや、ここは男子トイレだが?

「Optimized. Cost paid. 『Optimized. Cost received.』」

勝手に何を支払ったのだろうか。

それはともかく、少し触ってみるとしよう。何もないそこを触ってみる。少し大きくなったそれの先を触れてみる。

言うなれば、オキシトシンを感じる。

いや、そろそろ搭乗に行かなければ。

身の丈に合わないバッグを背負う。


*


ロリータ服の襟元を直しながらターミナルの鏡張りの廊下へ出た。厚底のメリージェーンがコツコツ鳴るたびに、脚にかかった慣れないストッキングの張力が現実を強調する。視界の端に広告モニターが並び、顔認証ゲートの利用を促す映像がループしていた。自動化された国際空港という巨大システムの中を、私は統計的外れ値として歩いている。


パスポートケースを開く。中の顔写真は元の私、二十代男性。外見とのギャップが指数関数的に拡大するのを感じる。最初の保安検査を素通りできたのは偶然だ。国内線乗継カウンターを経由する構造上、顔写真の照合が後段に回ったに過ぎない。次のゲートでは必ず突っ込まれるだろう。


だが“optim”は既にリソースを割り当てているらしい。表示端末のカメラがこちらを向くたび、私は自然と遮蔽角度を取る。群衆の動きのベクトルを予測し、死角を選んで歩く。視覚野に展開されるヒートマップのような直感が、ほんの数フレーム先の未来を指し示す。学術的には「運動計画行列の前頭前野バイアス補正」などと表現できるのかもしれないが、体験としてはただの超反射運動だ。


搭乗口B12。電子掲示に遅延の赤文字はない。むしろ放射線騒ぎでキャンセルが多発した影響か、空席が目立つ。係員は通常より多いものの、旅客は散発的だ。私は列の最後尾へ並ぶ。マスクとフードで表情のほとんどを隠しているせいか、周囲は私を子供連れの陰のように扱う。手荷物検査の台が近づくにつれ、胸が規則正しく膨らみ、肩紐の擦れを意識した。


金属探知ゲート。バッグをトレイに乗せ、ポケットを空にする。係員は私のパスポートを開き、写真と顔を見比べ――硬直した。私は何も言わずに指をそっと差し出す。係員は視線を低くし、指紋スキャナを示した。私はロリータ服の袖口から伸びた細い指でパネルに触れる。照合ランプが緑に変わるまで、鼓動が1拍ごとに長く感じられた。


緑。係員は無言でパスポートを戻す。私は小さく会釈し、バッグを受け取る。背後で囁き声が上がった気がするが、足を止めない。「生体情報が上書きされた」あるいは「係員が判断を放棄した」どちらにせよ通過は事実。コストが何だったのかは依然として不明だ。


搭乗橋を渡ると、機内に甘い空調の匂いが漂う。客室乗務員が微笑み、座席番号を示す。窓側21A。身をすぼめるように座ると、フリルの裾がシートベルト金具に挟まりジッという音がした。安全ビデオが流れるあいだ、私はバッグからUSBメモリサイズのLoRaトラッカを取り出し、イヤホンジャック型のセンサに接続する。深圳到着後、現地の無線環境を即座にスキャンするためのハックだ。指先が小さくなったせいで作業精度はむしろ向上している。


ドアクローズ。ジェットエンジンが低く唸る。隣席は幸運にも空席だが、通路側にはスーツ姿の男。彼は新聞を折りたたみ、私の服装を一瞥して眉を上げた。私は視線を窓へ逃がし、夜景の滑走路灯を数え始める。ここでも“optim”は働いているらしく、視野が強制的に水平線へ誘導され、酔いを防いでくれる。合理的だが、意志のスキマが風前の灯だ。


テイクオフ。体が背もたれに押し付けられ、腹部に小さな違和感。骨盤の角度が変わったぶん、慣性ベクトルが今までと違う位置を突く。生物学的な性差を慣性質量の分布で実感するとは、面白い実験台だ。だが「Cost paid」という文言が脳裏をよぎるたび、掌のひらが冷える。私は何を支払ったのか。若い身体か、個人認証データか、あるいは別の不可逆な資源か。


巡航高度。機内照明が落ち、読書灯だけが点在する。私はバッグから小型の光センサモジュールを取り出し、窓の縁に当てがう。外部放射線が異常であれば、センサ出力の蛍光強度が変わるはずだ。結果はノイズレベルの範囲。少なくとも成層圏まで核種雲は到達していないらしい。安堵の代償に、脳裏で誰かが計算式を走らせる。γ線の後方散乱係数、太陽宇宙線の変動、機内アルミシールド厚。リアルタイムに立ち上がる数式表示は、おそらく“optim”のUI。私は自分の脳をデバッグコンソールとして見せられている。


機内サービスのカートが近づく。私は声色を変えないよう注意しつつ、アップルジュースを頼む。乗務員は子供へ与えるように紙パックを手渡してくれた。ストローを差し込み、吸った瞬間、舌に甘味が広がると同時に視界がわずかに明るくなる。血糖値とシナプス活動の即時的な相関を“optim”がシミュレートしているようで、甘味がニューロンを潤滑油のように包む感覚がある。これは危険な利便性だ。味覚と演算効率が正比例するなら、欲望を制御できなくなる。


耳元で電子音。イヤホン無しで聴こえるのは脳内通知だ。『Optimization routine stabilized. Resource debt: 2.3』単位は不明。私は膝上で拳を握る。債務。通貨か時間か遺伝子か。思考を深掘りしかけて、隣席の男と目が合った。彼は口元をゆるめ、ひと言。


「家族と離れてるのかい?」


低い声に戸惑い、咄嗟に頷く。嘘はついていない。私は自分という家族から離れたのだから。男は背もたれに寄り掛かり、窓の彼方を見やった。


「大丈夫。中国は安全だよ」


彼がどの立場で言っているのか知らないが、その言葉は私の実存的不安を少しだけ溶かした。言語は、量子論でいうデコヒーレンスに似ている。無限の重ね合わせから、意味が一つに収束する。ただし今の私は、他者の観測を掻い潜ることで最適化を維持している。発話による情報開示は、波束の崩壊を加速させる。沈黙こそが保存則だ。


到着地まで残り2時間。機内の暗がりで、私は目を閉じる。脳内に浮かぶのは深圳の夜景写真と、地下市場で山積みになるMCUボードの匂い、熱帯夜の湿度、そして未知の“解放”シークエンス。“optim”はバックグラウンドでシミュレーションを回し続け、私の心拍を電気回路のクロックに同期させる。


——リソース債務2.3。支払期限は不明。

——“MCU”の解放と同時に債務が相殺されるのか、それとも増幅するのか。

——ロリータ服とJCの肉体は単なる見かけか、それとも物理層が書き換えられたのか。


思考の木が分岐し尽くしたところで、意識がスリープモードに落ちていく。レジューム時刻は着陸20分前。私は“optim”に自動アラームを設定し、瞬時に微睡の底へ沈んだ。夢の中で、量子ビットが高速にスワップされ、ルービックキューブのように色面が入れ替わる。完成図はまだ見えない。だが完成は必ずある。最適解が定義されている以上、探索は有限だ。


*


「まもなく着陸態勢に入ります」


客室乗務員の声で目が覚めた。視界はまだロリータのレース越しに滲むが、脳は完全に再起動している。窓外に広がる灯火は、都市というより電子基板の発光ダイオードのようだ。深圳宝安国際空港。基盤は既に通電している。私はベルトを締め直し、胸の奥でカウントダウンを始める。リソース債務2.3。支払う覚悟はある。観測者である以上、結果に責任を負うのは当然だ。


タッチダウン。逆噴射の振動が骨に響く。最終停止のブレーキで頭が前へ揺れ、髪飾りのリボンが頬を掠めた。異国の空気がシールを破るように機内へ流れ込んでくる。甘さと油と ozone の混じった匂い。私は深く吸い込み、肺を満たす。


「Optimization active. Welcome, Operator」


脳内に淡い声がささやき、HUDが立ち上がる。文字列の背後で回転するMCUのピン配列図。深圳の地図がオーバレイされ、複数のウェイポイントが点滅する。その中心に霞む紫のアイコン。ラベルにはただ一行。


Cost redemption point.

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