第3話

第三話


たとえ全てが量子の揺らぎで決まる世界だとしても、300 GJもの熱が東京の中心で発生したという事実は、単純な確率分布の尻尾では説明し切れない。電車の窓ガラスに映る自分の顔は揺れながら歪み、バックグラウンドの夜景と交差しつつ重なり合う。LED表示が次の停車駅を告げるたび、光の干渉縞のように私の輪郭が崩れては収束した。


——あれは“スキル”の仕業ではなかったのだろうか。


脳裏をよぎる問いは、すぐに否定の反証を探し始める。掌のスマホには地震速報アプリと放射線監視サイトのグラフ、そしてSNSのタイムライン。霞が関周辺は依然として封鎖され、実線と点線の境界が引かれた地図が繰り返しアップデートされている。測定値は公表と非公表が錯綜し、β線とγ線の比率、He³の検出報告、そしてグラファイト板の残骸写真。どれも断片的だが、統計的な裏付けを欠いたノイズの多さがかえって真実味を帯びてくる。無秩序こそが現実の自発的対称性の破れを示す。


もし核融合を引き起こす“スキル”が存在したなら、臨界条件をどう満たす? 水素缶一本とグラファイト板数キロで300 GJを出すには、理論上の効率を考慮しても並のエネルギー閉じ込め時間では足りない。D-T反応なら14 MeV中性子が飛び交い、即座にあらゆる構造物が吠えるように熱を持つはずだ。しかし報道は中性子線を強調していない。代わりに電磁波の異常、γ線、そして大量のヘリウム。D³Heか、あるいはμ-catalyzed fusion(ミューオン触媒核融合)か。それなら水素缶とグラファイト板の組み合わせに説明がつく化学的メタ構造がありうる。だが現行の技術でミューオン源を携帯することは現実的でない。だからこそ、“スキル”という非物質的トリガが議論の俎上そじょうに上がってしまう。


もしテレポートという“スキル”があったなら。学ラン姿の人物が搬入したのは、ただのダミーかもしれない。真の装置はどこか遠方で励起され、その出力だけが空間を跳躍し財務省の地下空洞に顕現した、と考えるほうが放射線分布の非対称を説明しやすい。しかし、それは私自身の目的地である深圳にも適用可能なメカニズムだ。磁場のパルスを介して真空エネルギーの局所的相転移を誘発し、出力を“向こう側”へ転送するプロトコル——荒唐無稽でも、量子暗号がかつて夢物語と称された時代を思えば、一笑に付す勇気が薄らぐ。


ヒトは安易な結論を求めている。アノマリーを単一の説明原理に押し込めれば、世界は再び可搬性を取り戻す。だから私はこんなことを考えてしまうのだ。自分の旅路に無関係なはずの爆発を、“スキル”の序章として接続しようとする。他ならぬ私が合理化を渇望している証拠であり、観測者バイアスの罠である。


吊り革を握る掌が汗ばむ。最寄り駅から直通で成田空港へ向かうこの快速列車は、まだ定刻通り動いている。車内にはキャリーバッグを抱えた乗客もいるが、全体の空気は異様に静かだ。誰もがスマホを覗き込み、情報の洪水を飲み込む音だけが聞こえる気がする。時折、遠くの車両から押し殺した笑い声が漏れる。それは恐怖をジョークで薄める本能的なレジリエンスだろう。


私は座席に腰を下ろし、脈拍を測る。78…81…少し高い。隣の席で、中年のビジネスマンが新聞を折りたたんでいる。彼は一瞥をこちらに寄越し、紙面の見出しを指先で叩いた。


「なんだってね……東京で核実験みたいな騒ぎだ」


「実験かどうかはまだわかりませんけど」私は穏やかな声を出すよう努める。


「政府筋は『テロではない可能性も捨てきれない』ってさ。ありゃテロだよ。あんな量の熱と放射線、まともな政府がやるわけがない」


彼はその後も政府批判を小声で吐き続けたが、私は相槌を打つのみで“スキル”の語を口にすることはない。口にすれば、ただのオカルト好きの学生として切り捨てられる。私は科学を信じ、同時に科学の限界を知り、そして自分が今なお観測者効果の中で揺れる波束でしかないことを自覚している。語るべきは再現可能性のあるモデルであって、言霊ではない。


駅構内の電光掲示が流れる。放射線警戒のため、一部区間で速度制限が実施されるとのこと。依然としてダイヤは乱れていないが、実際に空港に辿り着くまでのマージンは削れそうだ。私は真琴にメッセージを送り、バス時刻表の代替案を再確認する。返信はすぐに来た。


「高速バスは今のところ平常運行。ただし空港のX線検査は厳格化。遅れの可能性あり。余裕見て」


短い文面の裏で、彼女がどれだけタブを開き、エビデンスを突き合わせているか想像できる。情報の確度を保つために、彼女はいつも一次ソースを漁り統計を取る癖がある。それは私が好む態度だ。合理的懐疑(critical rationality)は、都市伝説と科学の境界を試金石にかける唯一の手段だから。


車窓が一瞬暗転し、トンネルへ入る。蛍光灯の白色光が車内の静物を平板化し、隠されていた小さな傷や凹みを浮かび上がらせる。私は自分の膝上のリュックを抱え直し、思考を走らせる。


——もし“スキル”が本当に核融合やテレポートを可能にするなら、エネルギー保存則はどうやって守られる? 外部から真空エネルギーを取り出すのか。宇宙定数Λに接続するゲートウェイが微小スケールで開閉し、マクロな熱流束として現れる? その場合、観測者が得られる情報量は、カルバック・ライブラー発散で評価可能な範囲を超えるだろう。情報熱力学(Information Thermodynamics)が示すように、単なる測定ですらエネルギーコストを伴う。ならば“スキル”は測定と操作を完全に非局所化し、コストを別の位相空間へ追放している。そう考えるほかない。


だが、疑念は別の方向にも伸びる。あの300 GJは、もしや「誘い水」ではないか? 社会システムにエントロピーを注入し、人々を混乱させる。私は深圳へ向かう。爆心地を遠目に見つつ、あくまで異邦の電子市場を目指す。誘導されているのは私自身かもしれない。“スキル”がレールを敷き、私は量子トンネル効果のように障壁をすり抜けていく。


車内放送が次の停車を告げ、ドアが開いた。乗客が何人か降り、代わりに空港職員らしき制服姿が乗り込んでくる。彼らは重そうなケースを抱え、周囲の視線を避けるように席へ滑り込む。ケースの側面には英数字のシール。Ge(Li) DETECTOR と読めた。ガンマ線スペクトロメータだ。爆心地のサブモニタリング要員だろう。彼らの表情は硬いが、どこか淡々としている。職務としての恐怖は、仕様書の手続きと緊張の間に押し込められているのだ。


ドアが閉まり、列車は再び動き出す。私は視線を天井に転じ、頭上の空気を吸い込む。人工的な暖房の臭いと、冬服に閉じ込められた人々の体温が混じり、微かな酸化防止剤の匂いが隙間から漏れる。高分子樹脂(PET)の加水分解臭だ。量子化された分子振動が嗅覚受容体を叩き、私の脳に電気信号を送り込む。同時に、“スキル”という不可視のレイヤが、脳の別の回路を刺激している気がする。確かめようとすればするほど逃げ水のように後退し、しかし決してゼロにはならない残像。


——私は安易な結論を捨てきれないのかもしれない。だが、結論を渇望しながらも、それを保留し続ける辛さが認識のコストであり、観測者としての礼節なのだ。


窓の外、遠くの滑走路の誘導灯が線状に連なり、夜空へ向かって伸びているのが見えた。あれは文字通りのガイドライン。乱気流の中でも航空機が収束すべき一点を示す。私は南京錠の裏面を触るような慎重さで自分の胸ポケットに手を差し入れ、パスポートの硬いカバーを確かめる。観測の収束点は近い。次は私が測定される番だ。


あるいは、私こそが測定器そのものになるのかもしれない。深圳で“MCU”が解放されたとき、私は脳という回路を介して世界の量子相関を読み取り、応答を返す。核融合であれ、テレポートであれ、説明変数の不足を埋めるのは現場で得るデータしかない。偏在する真実の欠片を寄せ集め、再現可能な形式に再符号化する作業。それを私は自分自身の研究テーマにするつもりだ。電子部品も、人体も、情報も、エネルギーも、等しく論理ブロックとして扱う。帰還する頃には、私の頭の中に新しい回路図が刻まれているだろう。


列車は最後の加速を終え、滑るように高架駅へ突入した。スピーカーから聞こえるベルの電子音が、心臓の鼓動と同調する。私は立ち上がり、リュックのストラップを肩にかけ直す。足元にはわずかな震え。地上に伝わる振動に、私は遠く霞が関で起きた衝撃波の名残を想像した。だが、その微細振幅もすぐに列車の停止でかき消えた。


ドアが開く。澄んだ夜気が通路を這い、むき出しの鋼鉄の匂いを連れてくる。私はホームへ降り立ち、空港ターミナルへ続く長いコンコースを歩き始めた。足取りは軽い。しかしその軽さは、地球重力と私の質量が相殺された結果ではなく、不確定性という名の浮力が下から支えている。私はまだ結論に手を伸ばさない。測定はこれからだ。量子の波束が収束する刹那、その光子を捉えるのはこの私——観測者であり、被験者であり、そして影響系の一部である存在なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る