第2話

第二話


ほとんどの準備を終えた。海外用SIMも取得し、教授からの許可書も受け取り、旅券は昨夜ようやく手元に届いた。航空券のEチケット番号はバックアップを含め3か所に保存済み。自前のVPNサーバーは東京リージョンに一台、シンガポールに一台、どちらもWireGuardで立ち上げ、SSHの公開鍵を仕込んである。現地協力者が見つからなかったのは痛いが、到達さえすれば“スキル”が誘導してくれる——そんな根拠の薄い期待が、奇妙に心を軽くしている。


今日は2025年1月14日(火) 15時02分だが、今夜には成田へ向かうとしよう。リュックの重量は7.8 kg、許容範囲内。ノートPCと軽量はんだごてを入れても、まだ少し余裕がある。荷物を閉じ、ジッパーを撫で下ろした瞬間、テレビのテロップが視界に飛び込んだ。


「財務省に爆破テロ・財務省解体過激派の仕業か——」


リモコンを取る手が止まる。続報によると、爆発物も燃焼性ガスも痕跡がないという。現場の映像では、霞が関の正門が歪み、周辺のガラスは粉砕し、一部のコンクリートがガラス化しているらしい。警備員数名が行方不明のまま。司会が早口で読み上げる。


「放射線量およびヘリウム量が規定の100倍以上に到達。発生熱量は300 GJ、電磁波を含めると1200 GJに達すると見られ…」


背筋に冷たいものが走る。水素、グラファイト、瞬間的な高熱、そして放射線。核融合(thermonuclear fusion)の副生成物が脳裏をよぎるが、計測値は局所的すぎる。もし純粋なDD反応なら高速中性子線が検出されてもいいはずだ。だが報道はヘリウムとγ線を強調するのみ。作為的な情報制限か、あるいは観測機器の大半が既に飽和しているのか。


「監視カメラには学ラン姿の男がグラファイト板と水素缶を搬入する様子が映っているが、その後のデータはノイズで損傷——」


画面に映るフレームは静電気を帯びた埃のようにざらつき、安価なCMOSセンサが高線量で死んだ痕跡を思わせた。私は息を詰めた。ほんの数時間後には空港の保安検査を通過し、中国本土へ向かう予定だ。だが国内で放射線事故が発生すれば、出国手続きが混乱する可能性が高い。思考がスパークする。


——関東平野で発せられた300 GJの熱。距離にしておよそ40 km。大気中のエネルギー拡散を考慮すれば、微弱ながらガンマ線の余波がこちらにも到達しているかもしれない。窓の外を見た。冬の白い雲が裂け、午後の日差しが異様に眩しく感じる。単なるプラシーボか。だが量子ゆらぎの末端に立たされる観測者としては、すべての兆候が意味を持つ。


スマホが震えた。ディスプレイには真琴の名前。


「ニュース見た? 霞が関がやばいことになってる」

「見てる。核じゃないかって騒ぎ始めたね」

「空港、厳戒態勢になるかもよ。渡航大丈夫?」

「多分、出国より入国の方が厳しい。だけど行くしかない」

「本気だね……。じゃあ私、空港バスの時刻表送る。電車が止まった場合のバックアップも調べとく」

「助かる」


通話を切ると、ウィンドウが浮かび上がった。

『MCU: Local anomaly detected. Recalibrating parameters…』

英語表記だ。深圳行きを妨げる要因が増えたせいか、あるいは何かがトリガされたのか。不安よりも、むしろ回路が組み換わる手応えを感じた。未知の割り込みが入るほど、システムは自己最適化を進める——制御理論の根本はそこにある。


荷造りを終え、パスポートを胸ポケットに差し、財布の中の現金を数える。人民元はまだ手に入れていない。深圳の空港で両替するつもりだった。列島の上空を渦巻く社会的な混沌を背にして、私は玄関のドアノブに手を掛ける。


外は冬の黄昏。街路樹の影に街灯がともり始めていた。歩道のアスファルトに薄く霜が降り、それが夕陽で微かに虹色に光る。量子の干渉縞を思う。世界のどこかで、学ラン姿の誰かが巨大な実験を強行し、私の行動軌跡には不可逆の位相シフトが加えられた。その事実を受け入れよう。


——深圳へ行く。

——“MCU”を解放する。

——その先で、私自身が測定される。


鞄のジッパーを引き、私は踏み出した。

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