Experimental、MCU、Skill。
Ozone-ユイ
第1話
全ては量子の相互作用によってできている。魂など存在せず、脳はシナプスの発火組み合わせであり、神経伝達物質の受容であり、物質的に説明できる。
汎用的なルールに沿わないものがあるとしたら、それは神がいることの証明である———
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目が覚めるとそこは寝室だった。視界の端にはポップアップウィンドウがチラつく。
『スキル“MCU”を獲得しました。深圳に行くことで解放されます。』
“スキル”、ゲームの中でしか聞かない語彙だ。深圳に行くと利用可能になる、そう言われているようだが、どうしてそうなるのかわからない。
少しくらい、使えないだろうか。
それにしても、“MCU”とはなんだろうか。FPGAなら学科で実習をやり終えたところだが、マイコンなのだろうか。
枕元のスマホを手探りで探し、時刻を見る。午前6時32分。講義は9時からだ。充分余裕があるが、胸の奥がなぜかざわついて眠気は吹き飛んでいる。光る通知をもう一度目で追うと、ウィンドウは霧のように揺らぎ、やがて文字列だけが残った。
「深圳…」口の中で転がすようにつぶやく。中国本土に渡ったことはない。入国手続きが面倒そうだと勝手に敬遠してきた。だが、もし本当に何か得られるものがあるとしたら——。
枕元のノートに簡単なメモを書き留める。
・MCU=マイクロコントローラユニット?
・深圳=中国のシリコンバレー?
・行く価値は?コスト、時間。
あと、ポップアップは誰が送ってきたのか。幻覚かもしれない。寝ぼけ眼で見た夢の残滓という可能性も捨て切れない。けれど文字の輪郭がやけにくっきりと残っている。脳裏に焼き付いた光跡は、夢というよりレーザーポインタで網膜に描かれた残像に近い。
シャワーを浴びながら、水流の音の下で考えを整理する。もし仮に、あの通知が本当に何かの“指示”だとしたら、私にとって深圳はキーとなる場所だ。学校で学んできた電子回路の知識を応用できる場所——巨大な電子市場、数え切れないパーツと即興の基板加工サービス。
しかし、なぜ私が。それを考え出すと堂々巡りになる。私の家系はいたって普通、製造業の親戚もいない。大学で電子情報を学んでいると言っても、平凡な成績だ。人に誇れる業績などない。
着替えを済ませ、アパートの狭いキッチンでインスタント味噌汁を作る。乾燥ワカメがゆっくりと水を吸い、深い緑へ戻っていく様子を眺める。量子論を信奉する身としては、この再水和も化学ポテンシャルの差が駆動力だと頭では理解しているけれど、どうしても生命が息を吹き返すような感覚を覚える。
食卓に湯気が立ち上る頃、スマホが振動した。ディスプレイには「星乃真琴」の名。高校以来の友人で、現在は別学部のデザイン科に在籍している。
「早いね、今日は」通話ボタンを押すと、真琴の柔らかな声が耳に届いた。
「ちょっとね、変な夢から目が覚めてしまった」
「珍しい。いつも二度寝の魔王なのに。どんな夢?」
「深圳に行けって言われる夢」
「深圳?いきなり海外か。電子部品の聖地ってイメージはあるけど」
「そう、なんかそっち方面らしい。行ったことある?」
「ないよ。私のバイト代じゃ海外は無理」
「やっぱりな……」ため息とともに味噌汁をすすった。塩気が喉に落ち、体温を底から押し上げる。
「でも面白そう。卒業制作で電子ペーパー使う予定だし、現地の市場リサーチとか名目にしたら学内の補助金狙えるかもよ」
「そうか、その手があったか」
「教授に相談してみたら?やる気見せれば意外と資金つけてくれるかもしれないし」
「うーん……」教授の顔を思い浮かべる。研究室はハードウェア志向が強い。だが海外調査となると、もう少し説得材料が必要だろう。
「とりあえず資料集めとくよ。プレゼン作るとき声かけて」真琴は最後にそう言い、通話は切れた。
食後、洗い物を片づけながら思考を続ける。自分自身、なぜこんなにも Shenzhen というワードに引き寄せられるのか。ポップアップの文字列は、一見荒唐無稽だが、そこに書かれていた“MCU”という三文字が電子回路好きの琴線を揺らす。マイコン。私が初めて Lチカ(LED の点滅実験) に成功したときのあの高揚感が甦る。手のひらの小さな IC が、コードを書き込むだけで光を制御し、入力に応じて振る舞いを変える。私はあのとき、単純な制御の背後にひそむ論理ゲートの連なりを想像し、世界を構成する最小単位と自分の行為が繋がった錯覚を味わった。
——目の前の世界も、観察できる限りではニューロンと電子の相互作用だ。
そう考えると、深圳の巨大な市場は、脳内に埋め込まれた*新たな機能*を解放する鍵なのかもしれない。自力でプログラムを書き、ハードを組み上げ、世界に働き掛けることで、新しい回路を脳に刻み込むような。
コートを羽織り、キャンパスへ向かうため玄関を出る。冬の朝の空気は硬質で、吸い込むたびに気道が冷えて目が冴える。アパートの外階段を下りていくと、隣室の住人・今井さんがゴミ袋を持って出てきた。
「あ、おはようございます」
「おはよう。早いね。今日一限あるんだっけ」
「ええ、まあ。ちょっと教授に相談したいこともあって」
「偉いねえ。若いって羨ましいわ」
軽く会釈を交わし、私は駅へ向かう歩道に出る。朝焼けが街の輪郭を淡い桃色に染める。頭上の電線を通る信号が、一瞬だけ微かに弾むように見えた。心拍が速いせいかもしれない。
電車に揺られながら大学近くの駅で降りる。改札を抜けると、学部棟へ向かう人波が続いている。私はその流れから外れ、図書館棟の地下へ下りた。自動ドアが静かに開く。静寂が耳を包み、紙の匂いが漂う。
目的の書架は工学分野の奥、マイクロコントローラ関連の洋書が固まっている列だ。英語のタイトルを指でたどり、出版年の新しい順に脳内で並べ替えながら中身を確認する。ARM Cortex-M、RISC-V、ESP32、そして中国製 SoC に関する最新動向。深圳の小規模ファブが設計したチップまで取り上げる専門誌を見つけ、胸が高鳴る。
——深圳はただの市場に留まらず、アイデアと製造が交差する臓器だ。そこに行けば、私も血流に触れられる。
ページをめくる指先がかすかに震えた。そのとき、視界の隅でまたウィンドウが点滅した。
『出発まで—7日』
カウントダウンだ。私は息を飲んだ。誰が、何の権限で、私の予定を決めている?けれど、7日という数字には不可思議な説得力があった。準備期間としては現実的だ。パスポート、ビザ、資金、研究計画書——。
私は本を閉じ、借り出しカウンターへ持って行った。ICカードをかざすと、端末が電子音を立てて貸出手続きを完了する。レシートの返却期限は“1/14”。ちょうど7日後だ。
研究室のドアをそっと開けると、まだ人影はなく、空気は静電気を帯びたまま凍っていた。空気清浄機の低い送風音だけが響く机の列。私は奥の席に腰掛け、ノートパソコンを開いた。指先が躊躇している。教授にメールを送るべきだが、何と書く。
——突然ですが深圳に調査に行きたい?
脈絡が薄すぎる。けれど、考えを形にするには文字に落とすしかない。私は深呼吸し、キーボードを叩き始めた。
「おはようございます、横山先生。卒業研究の応用例として、中国深圳の電子部品市場を調査し……」
文を続けるうちに、深圳という固有名が目から脳へ、脳から指へループし、文章が自然に伸びていく。私の頭の中では、電子基板のブロック図が現れ、GPS の位置情報が深圳の座標にロックされる。
送信ボタンを押す瞬間、思考が白熱した電球のように弾けた。一度送れば戻れない。だが同時に、自分の中で回路が閉じ、電流が走り始めた実感があった。
窓の外、雲間から射す光が研究棟の壁を舐める。私はその輝きに、量子状態の確率雲が崩れ観測へ収束する瞬間を重ねた。人間の意志もまた、軌道が重ね合わさった状態から観測行為によって一点へ定まる。メールを送る行為は、未来の自分を一点へ縛り付ける観測だ。
——深圳へ行く。7日後に。
そのとき、研究室の扉が開き、白衣姿の教授が顔をのぞかせた。
「おや、早いね。何か用事かな?」
「先生、実は調査の件でご相談が」
「調査?具体的に?」
「中国の深圳で、現地の microcontroller の供給網を直接見てみたくて。卒業研究で扱う低価格 IoT デバイスの部品調達先を探したいんです」
教授は眉を上げ、近くの席に腰を下ろした。
「深圳か……興味深い。でも渡航費の問題があるね。学部の国際交流予算は春まで残っているが、急だな」
「必要な書類、私のほうで急いで作成します」
「万が一、学内予算が下りなかった場合はどうする?」
「自費も視野に入れます。航空券は LCC で探します。滞在は安宿やユースホステルにすれば、5日間で10万円以内には収まるはずです」
教授は唇を引き結び、数秒黙考した。
「よかろう。企画書を今日中にまとめて、私に送ってくれ。国際課にも同時に提出しよう」
脈拍が跳ね上がる。私は頭を下げた。
教授が去ったあと、再びウィンドウが揺らいだ。
『承認 1/3』
数字が増えた。私は無言で拳を握る。大学の承認を示しているのかもしれない。残るはパスポート取得と滞在先確保。
昼休み、学食で真琴に会った。プラスチックのトレイを手に席に着くや否や、彼女は身を乗り出してきた。
「どう?話通りそう?」
「今のところ順調」
「おお、よかったじゃん。で、深圳行ったら何するつもり?」
「基板屋を巡って、リール単位でパーツを仕入れて……。あと、3Dプリントの現場も見ておきたい」
真琴は頷きつつ、私の皿の麻婆豆腐を指差した。
「辛いのいける?」
「まあね」
「四川寄りの味とか強烈だよ。現地の人は朝から唐辛子を食べるとか」
「そういうのも楽しみかな」
スマホの画面を見せると、真琴の目が丸くなる。航空券比較サイトで東京-深圳の往復が6万台。「これなら行けそうだね。ホテルは?」
「まだ。でもドミトリーなら1泊2000円台もある」
「うわ、安。私は行けないけど、お土産話期待してる」
「任せて。電子部品のお守りでも買ってくるよ」
笑い合いながらも、私の胸裏には高周波のノイズが走る。旅は未知数の塊だ。語学、文化、治安、そして何より、あのポップアップの真意。その背後にいるものは人間か、アルゴリズムか、超越的な何かなのか。
午後、図書館の閲覧席に座り、企画書の骨子を作成する。研究目的、背景、期待される成果、予算、スケジュール。深圳の電子生態系を定量的に調査し、低価格 IoT デバイスのパフォーマンスを最適化するという名目は、教授の研究領域とも合致する。数字を並べ、根拠を示し、空白を埋めるたびに、自分自身の疑念が薄れていく。私は目的を持ち、計算し、行動しようとしている。
夕刻、提出を終え、キーボードから指を離れると、ウィンドウが再度現れた。
『承認 2/3』
あと1つ。パスポートだ。私の旅券は期限切れになって久しい。週明けには市役所で申請しなければ。
研究棟を出ると空はすでに群青に染まり、街灯が白い円を歩道に落としていた。息を吐くと白く曇り、終わりかけの年の瀬を感じる。深圳の気温はここよりはるかに温暖なはずだ。荷造りリストを頭の中で組み立てる。ノートPC、電源アダプタ、変換プラグ、USBロジックアナライザ、はんだ付け工具は現地調達でもいい。
——そして、もし現地で“MCU”が解放されたら、私は何を得るのだろう。
制御権限か。認知拡張か。単なるメタファーかもしれない。だが、それでも確かめる価値はある。
夜道、角を曲がるとコンビニの灯りが見えた。新型の宅配ロボットが店舗前でピッキング完了のブザーを鳴らしている。半自律的に動く機械の姿は、機能ブロックとしての身体性をさらけ出しているようで、私は歩を止める。あれも、内奥ではマイクロコントローラが命令を吐き、モーターのステップ角を制御し、障害物センサの値を評価しているはずだ。
——十数年前は考えられなかった光景だ。世界は加速度的にプログラム可能になっている。ならば、人間自身も、コードを書き換えることができるはずだ。
帰宅後、部屋の電気を点ける前に闇の中で深呼吸した。静けさを破るのは、冷蔵庫のコンプレッサー音と外の車の通過音だけ。視界が僅かに慣れたところで、ウィンドウがふわりと発光した。
『承認 3/3 旅程確定』
同時に、表示は折りたたまれ、時刻だけが残る。
『出発まで—6日23:08:16』
私は部屋の明かりを点け、鞄を床に置いた。準備は始まったばかりだ。けれど、心の奥深くでは既にどこかの回路が閉じ、トリガが入っている。量子の波束が収束するように、私の未来はひとつの経路へ収斂しつつある。
未知への恐怖はある。だが、量子は測定の瞬間にこそ真の姿を現す。測定器としての私自身が、深圳という観測点でどんな結果を得るのか。
私は机に向かい、パスポート申請書類の記入を始めた。ペン先が紙を滑る音は、ハイレゾ音源のようにクリアだ。世界は依然として量子的な揺らぎに満ちている。ならば、私はその揺らぎを掴みに行く——自分という観測者の責務として。
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