第1話 坂の途中で思い出すこと

夏の日差しが私の頬を刺す。時間はお昼過ぎ。中途半端。夏休み前の授業は、いつも中途半端な時間に終わる。お腹が変な音を鳴らす。恥ずかしい。


 私はいま、ずっと続く途方もない道を歩いている。通学路にはいつも坂があって、それを登るたびに死にたい気分になる。登り始めたときはまだ余裕があったが、斜面が急になるにつれて目が死んだ魚のようになった。


 流石に暑い。授業も、この日々も、ただただ続くこの坂のように、私に迫ってくる。重圧がのしかかり、体から多量の汗が流れる。乱雑に詰め込んだ教科書も、いまの私には苦痛でしかない。あのときの出来事を思い出すと、余計に神経が尖り、痛みを伴う。ただそこにいただけだったのに。


 


 今日の一限からの授業は、楽だったと言っても過言ではない。一限は国語で、担任が担当していた。担任は中年で、髪が少しジリジリしている。無駄に熱い国語の先生だった。いつもメガネをかけているが、その見た目に反して、私は彼が苦手だった。


 ただ、授業は案外わかりやすいし、発表やグループワークのような準備の必要なものもなく、ただ音読してプリントを解くだけの単純なものだった。瑞希のように学校生活を「青春の1ページ」みたいに考えている人たちは、少し退屈そうだったが、私にとってはむしろ、変化がないことは空虚ではあっても、苦痛ではなかった。


 一限目から四限目までは、ただの繰り返しだった。少しだけ変わったことといえば、友人の花田さんが体調不良で早退したことくらい。


 


 授業が終わり、みんなが帰宅していく。そのとき状況が変わった。瑞希が話しかけてきたのだ。それも、面倒なことを連れて。


 私の目の前に立っていた人は、目が血走っていた。明らかに怒っていた。沸点に達したような表情。情けなくも、確かに怒っていた。それは瑞希だった。

 ――本当にやめてくれ、と思った。


 


「何かしたのだろうか?」


 心当たりはなかった。そもそも、ほとんど関わりのない人に怒られる理由なんていくら探しても見つからない。瑞希はこの前も、なにか言いたそうに会話を終わらせた。何も掴めない彼女が不愉快だった。


 とりあえず謝ろうかと思って、言いかけたとき――

 それを遮るように、「ドンッ」と机を叩いた。怒っていた。いや、怒っている理由はわからなかったけれど。


 少しの沈黙のあと、瑞希は大きく口を開き、吐き捨てるように言った。


 


「由美子って、変わんないよね。……最低だと思うよ、そういうところ。」


「なんでそんなこと言うの? 私、なんかしちゃった?」


「少しは自分で考えたら?」


 


 そう言って、瑞希は教室から去っていった。感情的な言葉だけを残して。理由すら告げずに。

 ――これだから人間関係は嫌なのだ。人間が嫌なのだ。


 


 この痛みは意外にも私を蝕んでいた。虫歯が痛むように、神経に響く。この坂道をただ、汚れたスニーカーで歩く。ひたすら嫌な記憶と、理不尽な現実を考えながら。


 宿題は出ていないはずだが、帰るまでの間に出されたのかもしれない。早く課題を終わらせなきゃ、という強迫観念が強まる。タスク管理アプリみたいに、淡々とこなしていけたら良かったのに。


 ――明日は、学校に行きたくない。


 


 坂を降りると、自分の家へ続く階段がある。夏の木々の緑が、近くのベンチに影を落としていた。その周りには自販機が並んでいて、幼い頃はよく、公園の帰りに姉にジュースを買ってもらっていた。


 子供たちが公園帰りなのか、砂で汚れたTシャツを着ていた。彼らは楽しそうに微笑んでいて、友達と一緒に缶ジュースを選んでいたのだろう。やがて違う種類のジュースを綺麗に飲み干していった。


 私がいつも選ぶのはオレンジジュース。姉と一緒に飲むのが決まりだった。


 


 夏が深まるにつれて、友人たちとの関係は壊れていった。友人とは何なのか、私はよくわからない。彼女たちの目の色は、ただ物を反射しているだけのようだった。憎しみなど、負の感情が増していった。


 木は緑を蓄え、蝉の音が鳴り響く。私たちに、夏の渇きを教えていた。そしてそれは、私の変わり映えのしない時間そのものだった。


 ただそこにあるだけの、生の安堵。そのままを、私はまだ維持できているはずだった。

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