第2話 高台で借り暮らしをしていた少女
高台で仮暮らしをしていた少女がいたとして、その子は現実に戻っても上手に生きていけるのだろうか。
多くの人が、それは困難だというだろう。
動きを自分の中でユニークに消化することは許されても、外に出した瞬間に閉じ込められてしまう。禁書のように。
生きるという言葉では言い表せない、形のないもの。
その少女が大切にしていたものがあったとして、全て奪おうとしてしまう衝動もまた人間なのだとしたら。誰がそれを自由にできるのだろうか。
外に描いてしまった少女はきっと、孤独の中で死んでしまうか、殺されてしまうのだと思う。理不尽に感じるけれど、異常は海の中で飲み込まれていく。それが摂理なのかもしれない。
光も影もない空間に、色を無理やり塗っている此処には、少女の未来はないのだと思う。
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体育館に行くには、外履きの靴に履き替える必要がある。私は、今、少しばかり熱を帯びているのだろう。
ゆったりと流れる時間が好きなはずなのに、体育という授業は移動が多く、せかされた気持ちになって疲れるのだ。
瑞希との一件があったせいか、私は人間不信に拍車がかかって、花田さんや先生に話しかけられたりしない限り、ほとんど自分から話さなくなった。
瑞希に変なことを言われ、それに言い返せずに、時が過ぎていくのを待つしかない。私は人を信頼する勇気を持っていないから。
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「移動しなきゃ!早く行こー。」
知っている声がして、私は下駄箱から走っているふりをした。日差しがとても熱い。もうすぐ夏休みだというのに、何だかスッキリしない気分だった。
健康的な学生なら、運動音痴でもしがみついていくのかもしれない。私は体育が嫌いだ。運動があまり得意ではない。
苦手意識が助長されるのは、ペアを組まなければならない場面があるからで、今の状況もそうなのだろう。
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仲良くしてくれている花田さんは、少し背が高く、メガネを取るとかなりの美人で、意外ではないが、男子に隠れてモテているタイプである。
私以外にも仲良くしている女子がいるため、ペアを組む時はそわそわする。案の定、今日の体育の小野下先生が「二人組作って」と言うので、困難な山登りでもさせられるのではないかと、ありえない思考にまでたどり着いた。
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「え〜」という声と、「誰と組もうか」と落ち着かない様子のクラスメイトたち。
嫌悪感で溢れた。皆どこか夢見がちで、必死に誰かに合わせようとしている。私もその一人のはずだった。
鋭い眼光と、何か言いたげな表情。確かに、山を登らされているのかもしれない。
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今、私が一緒に組んでいるのは、もう関わらないと思っていた人だった。
クラスの中でもエンターテイナー的な存在で、気さくに話せるタイプだし、当然もうペアは決まっていると思っていた。
気まぐれなのか、瑞希は、私が余っていることに気づいて声をかけてきた。不思議なことに、私はその場で立ち尽くすしかできなかった。
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これが足りないものを補う出来事なのだとしたら、矛盾している。
瑞希は怒っているはずだし、縁を切るつもりだったのに、なぜこんなことをするのか私には全くわからなかった。
瑞希は、私よりも顔が整っていて、「抜けてるキャラ」をやっているけど、しっかりしているところもあって、本心が掴めない存在だった。
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今日はバドミントンをやるらしい。――「らしい」というのは、体育の授業をちゃんと聞いた覚えがないからだ。本当にダメな人間だと思う。
少し退屈そうにしていたはずの私が、今は違う。
これからいじめられるのだろう。瑞希からしたら私はただの玩具に過ぎない。過去の一件もあるし、目の前に立つ鬼子はバドミントン部で結構上手な方なのだ。
私は、観測者のようにそこにいるだけでいいはずなのに、なぜこんなことに巻き込まれなければならないのか。
蝉の音が遠くから聞こえる。幼い頃よく蝉を採集していたことを思い出した。瑞希も蝉のように、採集しやすい生き物であってほしかった。
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「みんなやってんのに、なんで早く始めないの? そういうとこ、嫌い」
「ごめんなさい。ぼーっとしてた。この前のこと、わざわざ私に言いに来るためにペアになったんなら、私一人でいるよ。他の子としてきたほうがいい」
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幼稚な我儘を言ったつもりはなかったのに、なぜか罪悪感を感じた。数秒経っても瑞希は返事をしなかった。――無視されたのだと思う。
瑞希は、1〜2枚の羽が削れたシャトルを細い指でつまみ、今か今かと始める構えを見せていた。
そのシャトルはしっかりしているように見えたが、羽には繊細な線が刻まれていて、隠しているものが浮き彫りになっているようだった。
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「始めるよ。ラリー。手加減するから」
シャトルの羽が空中に飛び、私の予測よりもはるか上へと舞い上がった。不器用な体で、私はその球を返した。
私が口を開かず、無視しているように見えたのか、瑞希は不安そうに口を開いた。
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「……。確かに、この前のことを言おうとしたのは認める。けど、それを言うためだけに由美子と組んだんじゃない」
そう言って少し俯いた瑞希は、シャトルの羽をラケットのギリギリに当てて打ち返してきた。
私はそれを見て憎しみを覚えた。本当に弄ばれているのではないかと、瑞希の善意すら偽善だと決めつけて。
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「なにそれ。同情? 一人になってるのが可哀想だから?」
「違う。偽善ではない。……話したかったの」
私は慌てて、瑞希の強い球を必死にラケットに当てようとした。でもその球はシャフトにすらかすらず、私の数歩先へと落ちていった。
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「じゃあ、なんでこの前いきなり酷いこと言ったの? 怒られる理由ないし」
「……それは、瑞希の態度が気に入らなかったの。それと、あのストラップのせいだよ」
瑞希は何かもっと言いたげだったが、続きを口にしようとして言葉に詰まり、その顔は――なぜだか泣いていた。
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瑞希の行動は、私には意味が分からない。あまり話したこともないはずだし、ストレスホルモン値が狂っていて、それを私にぶつけてきただけなのでは?
深刻に考えすぎたせいか、情報の処理が苦痛に感じられた。風邪を引いたみたいに。
揺らぎなどないと否定しているような瑞希は、私の中でクラスターのように増殖し、絶え間ない地獄へと私を突き落とす。
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放課後も、瑞希に言われたことや、放たれた眼光を思い出してしまい、余計に自分が嫌になった。
花田さんに気まぐれでお揃いを提案されてつけたストラップに、なぜ瑞希が怒るのか、私には理解できなかった。そもそも、そんなものがなんだというのか。
とりあえず休息を取るために、私は帰り道を少し遠回りし、群がる何かを跳ね除けながら、ただただ進んでいった。その先にはカフェがある。そこの窓から見える景色には、近くの川が少しだけ綺麗に映るのだ。
すべてを浄化するために。この理解できない何かを。
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店に入ると鈴の音が鳴り、中年くらいの女性とその旦那さん(ここのマスター)が出迎えてくれた。
このコーヒーの香りは、たったひとつだけ。此処でしか味わえない。
コーヒーを飲むと、場所によって味が変わる。豆の違いもあるけれど、不思議と香りや舌触りが違って感じられるのだ。
マスターが入れるコーヒーは、優しさと芯があって、気付いたら虜になってしまうくらいの味だった。
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机に置かれたコーヒーを、川を眺めながら飲む。喉に通っていくその感触。
いつもと比べて、少しだけ苦く感じた。透き通っているはずなのに、複雑で、でもどこか愛おしい。
この世界に意味がなかったとしても、これだけは「良いもの」だと言える。
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私は、浮かぶ夏の葉を眺めている。ただのエネルギーの発生。それだけの現象。
とても空虚で、それでも人はどこまで行っても孤独で、孤独じゃない。
すべてはゼロなのだろう。
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綺麗な空に雲が浮かんでいる。それが掴めたら、どんなにいいことだろう。
私も含めて、皆、幻想を抱いて、やがて収束していく。
しかし今だけは、見えている川底までもがきっと綺麗に、私を映してくれているだろう。
――もうすでに、この頃の私は、高台で仮暮らしをする少女に憧れていたのかもしれない。
お店を出た帰り道も、その余韻に浸って、きっと眠れない気がした。
赤く染まった空は、流れのように連なっていて、絶え間ない切迫感を、安息の地へと導いてくれるようだった。
汗が流れ落ち、その空の色が、私の鎖骨に微かに反射した。
そして私は、明日への扉のドアノブを、確かに今、掴んだのだった。
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