ゆらぎ

桂 燦義

プロローグ 空を見上げるだけの私

空を見上げる。

 私はただ大空を眺めているだけの存在。すべてはエネルギーの発生で、虚無にすぎない。人は孤独で、孤独じゃない。すべてはゼロ。綺麗な空に浮かぶ雲も、掴めない幻想だ。


 私もみんなも、幻想を抱いて収束する。ただ、それだけ。意味などあるのだろうか。


 


 チャイムが鳴る。

 私は三十六人のクラスで、ぼんやりしている。使い古した机と、錆びた椅子。不快な音。整然とした机の並びは「学校能力」の結果だ。


 クラスメイトが窮屈そうに通り過ぎると、鈴の音が鳴る。スクールバッグのキーホルダーだ。花田さんに「お揃いにしよう」と強引に誘われたもの。


 お揃いとは何か? 暗号? それとも安心の証?

 私は彼女と同じ会話を繰り返している。ただ「ある」だけの空想。人は安心のために言葉や物で自分を操作する。それが、私には可愛く見えない。


 


 この社会は、人形遊びの延長でしかない。

 もし「嫌だ」と言えば、空気を読めないと言われ、叩かれる。まるで逃げ場のない瓶詰めの地獄だ。


 言葉を飲み込むことだけが上達していくこの身体は、皮肉でしかない。


 人は、生きる意味を持とうとする。

 私のこの思考も意味づけだ。ただ「ある」だけの存在なのに、意味で自分を囲わなければ生きられない。


 


 呼吸も残酷だ。

 キーホルダーが揺れ、私の口は酸素を取り込み、ヘモグロビンと結びついて吐き出す。すべてがただの現象。


 前の席の誰かがペンを落とした。小さな不安が、体のプログラムから芽生える。


 クラスメイトのくしゃみ。インフルエンザが流行っているらしい。空気が陰鬱に染まった気がして、私はそっと息を止めた。


 時計の秒針がチクタクと刻む。休み時間は、あとどれくらい?


 


「ねぇ、由美子」声がする。

「ねぇ、聞いてる?」


 私は、仕方なく返事をした。


 声の主はクラスのムードメーカー、水谷瑞希。

 明るくて、誰とでも仲良くなる。私は彼女が苦手だ。何を考えているかわからないし、距離が近すぎる。博愛なのかもしれない。でも、私は人を愛せる気がしない。


 


 瑞希は覇気ある口調で尋ねる。


「由美子って、いつもぼーっとしてて、何考えてるの?」


「特に何も。いや、夕飯のことかな」


 期待外れだったのか、瑞希はため息をつく。


「何食べたいの?」


「カップ麺」


「なにそれ(笑)」


 


 瑞希は別のクラスメイトに呼ばれ、楽しそうにそちらへ向かっていった。微笑みながら、彼女は会話を繋いでいる。

 少しだけ、胸が詰まるような感覚。


 浅い会話に、何の意味もないはずなのに。私は、どこかで期待してしまっていた。

 この浮遊感をどう表せば、楽になれるのだろう。

 この呪縛は、いつになったら解けるのだろう。


 


 私の浮き輪が萎んだら、きっと私は溺れてしまう。

 今の私には、揺らぎしか見えていないのに。

 この世界に、私が存在する意味なんてあるのだろうか。


 


 強く拳を握りしめる。

 チャイムが鳴るまでの時間、私は時計の針の音に耳を澄ませる。呼吸を整えながら。


 


 チャイムが鳴る。

 椅子が軋む音。クラスメイトの焦る声。先生の足音。


 教卓に立つと、みんなが背筋を伸ばす。

 私も装う。

 先生の視線に、私の黒い瞳孔が合う。


 虚無感。拭えない心の空腹感。

 みんなと息を合わせ、抑圧された空間にただ時間が流れていく。

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