黒い人(ショートショート)

雨光

あなたのその優しさは、何を、殺していますか?

息子の、その、小さな手が、テーブルの上の、ジュースの入ったグラスを、倒した。


粘ついた、甘い液体が、私が、つい先日、買ったばかりの、白い絨毯の上に、どろり、と、毒々しい染みとなって、広がっていく。


私は、決して、怒らない。


それが、私という、父親の、完璧な、在り方であったからだ。


私は、床に、膝をつき、息子と、その、視線の高さを、合わせた。そして、静かに、優しく、語りかける。


「どうして、こぼしてしまったのかな。大丈夫だよ。一緒に、拭こうね」


息子は、私の、その、完璧な笑顔を見て、こくり、と、頷いた。


しかし、その、完璧な、父親の、仮面の下で。私の、腹の底では、黒く、熱い、マグマのようなものが、ぐつぐつと、出口を、求めて、煮えくり返っていた。


その夜からだ。


息子が、夜中に、突然、泣き叫ぶようになったのは。


そして、暗闇の、部屋の隅を、震える指で、指さして、怯えるのだ。


「あそこに、黒い人が、いるの」


私には、何も、見えない。


ただ、そこには、静かな、夜の闇が、広がっているだけだ。


しかし、息子は、毎晩のように、その「黒い人」の、存在に、怯え続けた。


やがて、私自身も、この家の中に、奇妙な「気配」を、感じるようになった。


私が、息子に対して、その、喉まで、せり上がってくる、熱い、怒りの感情を、ぐっと、喉の奥へと、無理やりに、飲み込む、その瞬間に。


決まって、部屋の空気が、ひやり、と、その温度を、下げるのだ。


そして、私の、視界の、その隅を、黒い、影のようなものが、さっと、横切る。


ある日の午後、息子が、公園で、他の子を、突き飛ばし、泣かせてしまった。


相手の、母親が、鬼のような形相で、私を、責め立てる。


私は、その場でも、決して、息子を、怒鳴りつけたりは、しなかった。


ただ、深く、深く、頭を下げ、静かに、謝罪の言葉を、繰り返した。


その時だ。


私は、自分の、その、丸めた背中の、すぐ、真後ろに、あの「黒い人」が、まるで、満足げに、すっくと、立っているのを、はっきりと、感じたのだ。


その夜、息子は、火が付いたように、泣き叫んだ。


「黒い人が、パパの、顔をしてる! パパと、同じ、顔だよ!」


私は、恐怖に駆られ、家中を、まるで、狂人のように、探し回った。


そして、寝室の、クローゼットの奥から、妻が、私に、黙って、仕舞い込んでいた、一つの、古い、木箱を、見つけ出した。


中には、私が、すっかり、忘れていた、幼い頃の、写真や、作文が、詰め込まれている。


そして、その、一番、底に、一枚の、黄ばんだ、新聞の、切り抜きが、ひっそりと、挟まっていた。


その、小さな記事の見出しを、読んだ瞬間。


私の、頭の奥で、固く、閉ざされていた、記憶の扉が、軋みを立てて、開いた。


それは、私が、まだ、小学校の、低学年であった頃の、ある、痛ましい事件を、報じるものであった。


私の父――つまり、息子の祖父――が、私が、犯した、些細な過ちに対して、激しく、私を、叱責し、その、大きな手を、振り上げた、その、直後。


心臓発作を起こし、私の、目の前で、絶命した、という記事だった。


私は、思い出した。


床に、倒れ伏す、父の、その、最後の顔。


私に、向けられた、驚きと、後悔と、そして、かすかな、憎悪の、入り混じった、あの、恐ろしい顔を。


ああ、そうか。


あの「黒い人」の正体は、父の亡霊などでは、なかったのだ。


それは、私が、あの日から、四十年間、ずっと、心の、最も、暗い場所に、抑圧し、閉じ込めてきた、私自身の「怒り」という、感情、そのものだったのだ。


それは、行き場を失い、私の無意識の中で、人格を持つほどの、巨大な、黒い影へと、成長していた。


そして、息子が、私の「怒り」を、誘発するような、行動を取るたびに、それは、私の、心の中から、抜け出し、実体化して、息子を、脅していたのだ。


私に、怒りの感情を、思い出させ、解放させるために。


私は、泣きじゃくる息子を、強く、強く、抱きしめた。


そして、初めて、息子を、本気で、叱った。


「人を、傷つけるようなことを、しては、いけない。分かったか」


それは、怒鳴り声ではなかった。


しかし、そこには、父親としての、確固とした、愛情と、そして、人間としての、当たり前の「怒り」が、確かに、こもっていた。


その、言葉を、口にした、瞬間。


部屋を、満たしていた、あの、氷のような、冷たい気配が、すーっと、春の雪のように、消えていくのを、感じた。


私の、背後に、立っていたはずの、「黒い人」の気配も、もう、どこにも、ない。


私の、心の中から、あの、黒い影が、完全に、消え去ったわけではないだろう。


それは、ただ、私の、心の中の、あるべき場所へと、静かに、還っていっただけなのだ。


私は、その、不完全で、厄介な、しかし、人間らしい、この感情を、抱えながら、父親として、これからも、生きていく。

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黒い人(ショートショート) 雨光 @yuko718

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