第32話・主人は一人

「ううっ。ぐすっ。……すみません。お見苦しいところを見せてしまいました~」

「いいよ」

「気にしていない」

「うううっ。お二人とも優しい~」

 私とジョンド様の言葉にメーチェはまた涙を流しそうになっていたけど、ギリギリのところで耐えたらしい。メーチェは小さく鼻をすすりながら自分の服で涙を拭っている。多分だが、メーチェの服の袖はかなり濡れていることだろう。私の肩といい勝負をするくらいには。

 どうにか涙を拭って終わったのだろう。メーチェは咳払いをして出来る範囲で見た目を整えるとジョンド様に向き直った。目尻が薄らと赤い。

「ジョンド様」

「うん」

 ジョンド様は変わらず微笑みを浮かべている。それだけで私の知らない時間で二人の間に信頼関係があったことが分かる。私ではどうやっても知ることの出来ない時間を共有している人達がいる。それは生きている限りは普通のことなのに、対象が前世であるという点においてどこか嫉妬に似た感情を覚えてしまう。

 私は一回分の人生でしか積み上げていないものを、二回分の人生として積み上げることが出来るからだろうか。羨ましいなとは思うけれど、私もそこに並びたいとは不思議と思ったことがなかった。皆の反応から想像がついているのだ。私はきっと生まれ変わりではあってもコーデリアとはもう違う人間だということに。

「前世ではあなたの夢を叶える前に死んでしまって申し訳ありません」

「許す。俺も結局叶えられなかったからな」

「その広いお心に感謝してもう一つ許しをいだたきたく」

「何だい」

「あなたの従者を今日この時を以て辞めさせていただきたいのです。今日で私は自分のことを思い知りました。二人の主を、私の魂が二人の主を仰いだままだとまた今日みたいに暴走してどちらの主人も傷つけてしまうことに」

 予想していなかった言葉に私はメーチェの顔を見てしまう。

 私としてはメーチェを手放すつもりは全くなかった。なかったが、ジョンド様の従者を辞めるまでするとは思ってもみなかったのである。別に二人の主人を仰いでいたっていいと私はそう考えていたから。ジョンド様以外なら私は不機嫌になっていただろうけど、もう一人の主がジョンド様なら私だって納得出来た。

 それなのに、メーチェは。

「今生における私の主人はルティア様だけですので」

 私を、私だけを主人と認めてくれると言う。それがくすぐったくて、恥ずかしくて、照れてしまって、顔を覆いたくて、でもそれら全てを上回るくらい嬉しかった。

「分かった。じゃあメーチェとは今この瞬間から本当に主人と従者なんかじゃない。対等な相手としてよろしく頼む」

「はいっ!」

 メーチェが明るく弾むような返事をした。今日一日が目まぐるしくて、メーチェのこんな元気な声を久しぶりに聞いたような気さえする。……いや、普段からゆっくり喋っているせいで元気さを感じる声を聞いたのは本当に久しぶりかもしれない。

「それと最後に一つ」

 私とジョンド様の前でメーチェが指を一本立てた。メーチェの笑顔が見れて嬉しいはずなのに、私はどうしてかその笑顔に嫌な気配を覚えた。さすがに家から抜け出しすぎた私がメーチェに騙されてヒユノーの前に連れて行かれたときのような。そういう嫌な気配を。

「勢い余ってジョンドさ……んに告白しちゃいましたけど、あれやっぱり私の分は取り下げます~」

「はっ!?」

 待って。メーチェは一体何を言い出している。

「前世の私は間違いなくジョンドさんに恋していました~。でも、よ~く冷静に考えると前世の記憶に引っ張られていただけで、今の私はジョンドさんのことは好きですけどドキドキするみたいな恋はしていません~」

 待って。本当にお願いだから待ってほしい。その話題はなんかこう、いい感じにうやむやっぽくなってたじゃない。

「あ、でも、取り下げるのは私だけですからルティア様がどう思っているかは本人に聞いてくださいね~」

 あまりの驚きに声が出ない。口をパクパクと開閉するばかりで言葉が何も出てこない。

 メーチェ、ねえ。私だけが主人と言ったすぐ後にその主人を売ったことに気付いているの? いや、メーチェのことだから分かっているに決まっている。それを責めたいのに私の喉は動揺してしまって本来の機能を果たしてくれない。

「ヒユノーさんは私が家に連れて帰ってちゃんと手当しておきますね~。私のせいですから目覚めたら私一人で謝っておきます」

 メーチェがヒユノーの元に向かっていき、ヒユノーを背負う。一人で軽々と背負うその姿にやっぱり私とは力が違うのだなと思った。私だったら絶対にヒユノーを引きずることしかできないし。

 思考回路がどこか現実逃避をしている。メーチェの方しか見られなくてジョンド様を視界に入れることすら出来ない。頭の中がぐるぐるしていて、何を考えたらいいかよく分からない間にメーチェは完全にヒユノーを背負っていて、帰る準備を万端にしていた。

「それでは私はお先に失礼します~。こんな時間ですからジョンドさんはルティア様をちゃんと家まで送ってあげてくださいね~」

「まっ……」

 私はつい手を伸ばしてしまったが、裏路地から出るために歩を進めたメーチェが振り返ることはなかった。遠くなっていく背中は角を曲がると途端に見えなくなって、この場所を静寂が支配する。メーチェが言っていた内容なんて一旦無視して無理矢理にでも一緒に帰れば良かったのだが、私の脳内は混乱していてそんな考えすら思い浮かばなかったのだ。

 何を言えばいいのか分からなくてジョンド様の顔が見れない。というかジョンド様だって困るだろう。急にメーチェからメーチェ自身と私が好きだと言われたと思ったら、メーチェが自分だけそれを取り下げて先に帰ってしまったのだ。どう反応したらいいか迷っているのはお互い様ではあると思う。

 それでも! 困っている度合いでいったら私の方が上だと思うのだ!

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