感覚のない手(ショートショート)

雨光

90分の虚無

個室の中は、いつも、異国の花の、甘い香りで、満ちていた。


私は、その、人工の香りの中で、また一人、見知らぬ男の、その、たるんだ背中に、ぬるりとしたオイルを、滑らせていく。


客の体は、私にとって、ただの、肉の塊に過ぎない。


私は、その肉の起伏を、何の感情もなく、ただ、指先で、なぞっていく。


壁の、小さな時計の針が、私に課せられた、この、90分という、ひどく退屈な時間を、早く、刻み終えてくれることだけを、願いながら。


90分、2万円。


その価値が、どこにあるのか、私には、分からなかった。そして、分かろうとも、しなかった。


その日の、最後の客を、いつものように、作り物の笑顔で送り出した後、私は、自分の両手に、奇妙な、そして、不穏な違和感を、覚えた。


指先の感覚が、鈍いのだ。


まるで、薄い、上質なゴムの手袋を、一枚、皮膚の上に、ぴったりと、貼り付けられているかのように。


その日から、私の手は、ゆっくりと、しかし、確実に、死んでいった。


熱い湯に浸しても、冷たい氷を握っても、私の指先は、もう、その温度を、感じ分けることができない。


しかし、奇妙なことに、仕事の間だけ――あの、薄暗い個室で、客の、生温かい体に、触れている、その間だけ――その客が、心の奥底で感じているはずの、鈍い「痛み」や、淀んだ「疲れ」、そして、満たされることのない、粘つくような「欲望」が、まるで、泥水のように、私の、感覚のない手のひらへと、じわり、と、流れ込んでくるようになった。


夜、一人、アパートの寝台で、横になっていると、私の手が、私の意志とは、全く、無関係に、動き出すことがある。


それは、私の体を、まるで、見知らぬ誰かの体であるかのように、機械的に、撫で回すのだ。


私が、いつも、あの個室で、客に施している、あの、心の、ひとかけらも、こもっていない、虚ろな、虚ろな、愛撫。


やめようと、念じても、私の手は、私という主人を、裏切り続ける。


やがて、私の、その、死んだ手のひらに、見知らぬ男たちの、顔の形をした、青黒い「痣」のようなものが、次々と、浮かび上がってきた。


それは、私が、これまで、適当に、あしらってきた、無数の客たちの、その、満たされなかった欲望の、澱んだ、残滓であった。


恐怖のあまり、仕事を休んだ、ある雨の日の午後。


一本の、電話が、鳴った。


それは、店の、数少ない、常連客であった、一人の、物静かな老紳士からであった。

彼は、私が、店を休んでいることを、なぜか、知っていた。


「一度だけ、お会いして、お話ししたいことが、あるのです」


その、静かな、しかし、抗うことのできぬ響きを持った声に、私は、頷くしかなかった。


喫茶店の、窓際の席で、老紳士は、私の、その、痣の浮き出た手を、悲しげな目で見つめながら、静かに、語り始めた。


彼は、かつて、名の知られた、彫刻家であったのだという。


「しかし、ある事故でね。私は、この両手の、ほとんどの感覚を、失ってしまったのです。粘土の、あの、ひやりとした感触も、石の、硬い、肌理も、もう、私には、感じることが、できない」


彼は、続けた。


「だが、不思議なことに。あなたの店で、あなたの、その手に、触れられている、あの時間だけ、ほんの僅か、昔の、あの、確かな感覚が、蘇ってくるのです」


「あなたの手は、おそらく、特別なのですよ」


老紳士は、言った。


「あなたの手は、触れた相手の『感覚』を、吸い上げてしまうのです。あなたが、もし、心を込めて、相手の体を、その魂を、癒そうとすれば、あなたはその疲れや痛みを吸い取り、相手は、快方へと向かうでしょう。しかし、あなたが、相手を、ただの肉の塊として、無感動に、虚ろに触れる時、あなたの手は、相手の、正常な『感覚』そのものを、奪い取ってしまう。そして、代わりに、その、空っぽになった器から、淀んだ欲望の澱だけを、吸い上げてしまうのです。あなたが、今まで、奪い続けてきた、無数の客たちの、その『感覚』が、今、あなたの手を、麻痺させているのです」


私は、愕然とした。私の、無気力と、傲慢さが、私自身の手を、感覚のない、ただ、他人の欲望を映すだけの、呪われた器へと、変えてしまっていたのだ。


老紳出は、最後に、小さな、木彫りの、鳥の人形を、テーブルの上に、そっと、置いた。


「これは、私が、最後に、彫ったものです。もう、何も感じることのない、この手でね。これを、あなたに、差し上げましょう」


その日から、私は、店を、辞めた。


手の麻痺は、治らない。


しかし、私は、時折、あの、小さな、木彫りの鳥を、感覚のない手で、そっと、握りしめる。


すると、ほんの一瞬だけ。木の、硬く、しかし、どこか温かい、あの、確かな感触が、手のひらの奥で、蘇るような気が、するのだ。


失われた感覚を取り戻すための、償いとも、治療ともつかぬ、長い、長い、手探りの日々。


それは、恐怖の終わりであり、そして、同時に、本当の意味での、私への、罰の始まりで、あったのかもしれない。

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感覚のない手(ショートショート) 雨光 @yuko718

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