掌編小説『売れない音楽家』
マスターボヌール
「灰になるまで叫べ」
ここにいるのは、もう夢じゃ食えない男だ。
薄暗いアパートの六畳間。窓の外は、もう何度目かわからない夜明け前の灰色。コンビニの弁当の空き容器が散乱し、埃っぽい空気の隅で、エレキギターが壁にもたれかかっている。ネックには薄く汗染みが染み付いていて、それは持ち主の生き様そのものだった。
響、三十歳。売れない音楽家だ。
「売れない」という言葉は、彼にとって最早、通り過ぎる車の排気ガスのように日常の一部だった。音楽で食っていく、という漠然とした夢を抱いてこの街に出てきて十年。その間、彼は何度も死んだ。経済的に、精神的に、そして時には、音楽家として。
日中はコンビニのレジ打ちで無表情な笑顔を作り、夜は帰宅後、隣人から苦情が来ない程度にボリュームを絞ってギターをかき鳴らす。指は硬く、タコだらけ。喉は常に枯れている。それでも、彼の中から音楽が消えることはなかった。むしろ、飢餓が募るほどに、その渇望は深まっていった。
初めてステージに立った日、彼は胸が張り裂けそうなほどの高揚感を覚えた。しかし、客席は常にまばらで、拍手は虚しく響くだけだった。音楽関係者から声をかけられることもなく、デモテープはどこを彷徨っているのかすら不明。友人は皆、堅実な職に就き、結婚し、家庭を築いた。SNSで見る彼らの輝かしい生活は、響の心を時折、冷たいナイフでえぐるように突き刺した。
「いつまで、そんなことやってるんだ?」
実家からの電話は、いつも同じ問いかけで始まった。その度に、響は決まって喉の奥に鉛を飲み込んだような気分になる。諦めること。それは最も簡単な選択肢であり、最も彼が避けたいことだった。
響の音楽は、綺麗事ではなかった。人生の不条理、社会の歪み、そして自分自身の弱さや醜さ。それらを吐き出すように、彼は歌った。時には耳障りなほどに、時には壊れる寸前まで声を張り上げて。しかし、その叫びは、誰にも届いていないようだった。
ある日、馴染みのライブハウスのオーナーから電話があった。
「響、来週の土曜、急だけど空いてるか? 一人キャンセルが出ちまってさ。ギャラは出せないけど、どうだ?」
いつものことだった。ギャラが出ないどころか、ノルマがあるライブだって少なくない。しかし、響は迷わず「やります」と答えた。それが、彼に残された唯一の居場所だったからだ。
ライブまでの数日間、響は狂ったようにギターを弾き、歌い続けた。喉が痛み、指が攣りそうになっても、彼は止まらなかった。これは、きっと最後のチャンスだと、根拠のない予感が彼を突き動かしていた。いや、チャンスなどなくても、自分の中から溢れ出すものを、今、この瞬間、出し切らなければ、きっと彼は壊れてしまう。
部屋の隅に転がっていたメモ帳には、殴り書きの歌詞がいくつも記されていた。
「灰になるまで叫べ」
その言葉が、彼の頭の中で、ずっと繰り返されていた。
ライブ当日。土曜の夜だというのに、ライブハウスには響の他、店員とオーナー、そして常連の数人しかいない。雨上がりの蒸し暑い夜だった。湿度を吸った空気が、彼の呼吸を重くする。
「…どうせ誰も来やしない」
諦めにも似た呟きが、乾いた喉から漏れた。
オーナーが気を遣って、肩を叩く。
「まあ、響の歌は、わかる奴にはわかるさ。な?」
その言葉は、優しさでもあり、同時に彼の現状を突きつける現実でもあった。
ステージに上がった響は、アコースティックギターを抱え、マイクの前に立った。誰もいない客席に向かって、深呼吸する。
一曲目。いつものように、重く激しいリフが鳴り響く。彼は目を閉じ、歌い始めた。
その声は、掠れていた。連日の練習で、喉は限界だった。それでも、彼は絞り出すように歌い続けた。二曲目、三曲目。汗が滴り落ち、Tシャツが肌に張り付く。ギターを弾く指先からは、薄く血が滲んでいた。
四曲目。それは、今日この日のために書き上げた新曲だった。タイトルは、なかった。
「……生きてるって、なんだ?」
響は、突然、歌い出しの前にそう呟いた。
誰も答えられない。誰も答えを求めていない。
そして、彼は叫んだ。
「この命、燃え尽きるまで! この声、灰になるまで!」
響の歌声は、もはや人間のそれとは言い難いものだった。喉が張り裂け、血が滲み、肺が破裂しそうなほどの音量で、彼は歌い叫んだ。それは、彼が今まで抱えてきた全ての苦しみ、絶望、そしてそれでも消えなかった微かな希望を、一度に吐き出すような咆哮だった。
ギターの弦は、まるで彼の魂の震えに呼応するかのように、時に軋み、時に激しく唸った。
彼はステージの上で、文字通り、命を燃やしていた。
その夜、たった一人の客が涙を流していた。
掌編小説『売れない音楽家』 マスターボヌール @bonuruoboro
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