第3話

 目が覚めた時、外は小雨になっていた。


(これなら帰れそうだな)


 リーハを起こさないようにゆっくり立ち上がり、房から出た。

 外套を羽織ってから笠をかぶる。


「おやすみ、リーハ。また明日」


 リーハは一瞬もぞもぞと動いたが、起きる気配は無かった。そうしてカラルは竜舎を後にした。

 外に出ると、道にはあちこち水たまりができていた。波紋が絶え間なく広がっては消えていく。

 雨は弱いが風が強く、カラルは傘を深くかぶり、うつむきながら進んだ。


 家に着いた頃、雨はすっかり止んでいた。雲の切れ間から茜色の空が覗いている。


「ただいまぁ」


「あら、おかえりカラル」


 土間で夕飯の支度をしていた母が振り向いた。


「父さんはやっぱりまだ帰ってきてないの?」


「一回帰ってきたんだけど、すぐ出て行ったよ。お前とそっくりだねぇ」


 母は鍋をかき混ぜながらくすくすと笑った。白い湯気と共に、美味しそうな匂いが漂ってくる。


「今日の夕飯は?」


「今日は羊汁とクブズ(無発酵パン)だよ。それと、お前が買ってきた牛の乾酪チーズも」


 それを聞いて口角を少し上げながら、カラルは居間へ上がった。

 敷物に座り、傍らに置いてある本を手に取ると、続きから読み始めた。

 ぱらぱらと頁を手繰る音に混じって、カラルの小さな声が聞こえる。つい口に出してしまうのがカラルの癖だ。西日が小さな体を縁どっていく。


 空腹も限界を迎えた頃、戸を開ける音が聞こえた。


「ただいまぁ」


 笠と外套を小脇に抱えて父が帰ってきた。


「いやぁ、カシールに言われて念のため雨具を取りに戻ったけど、結局出番無かったなぁ」


 父は雨具を壁に掛けて居間に上がり、座卓の前に腰かけた。ふう、と一息つく。


「おかえり父さん。遅かったね」


 ぱたん、と本を閉じる。


「ああ、長老の話が長くてな。まったく、口だけ達者な年寄りは困る」


 カラルは苦笑した。


「みんな帰ってきたことだし、夕飯にしようかね」


 そう言って、母は土間から汁物碗と、クブズが積まれた大皿を持ってきた。


「いただきます!」


 夕飯が運ばれてくると、カラルは早速食べ始めた。

 お椀に口をつける。透き通った汁は羊の脂が溶け出していて、ほっとする味だ。香草がふんだんに入っているおかげで臭みもない。

 少し硬いクブズに乾酪を乗せて食べると、香ばしさととろっとした乾酪の濃厚な味が口いっぱいに広がる。


「そういえば、長老とは何の話をしていたの? カシールさんに訊いても答えてくれなくて……」


 父は少し戸惑いの色を見せた。よほど言いづらい話なのだろうか。

 それから、父は汁を一口飲んでから、口を開いた。


「実はな、カラル……。もしかしたら――」


――ドンドン。


 突然、戸を叩く音が家中に鳴り響いた。


「誰だろう、こんな夜中に……。少し出てくるから、ちょっと待っててくれ」


 父は重そうに腰を上げると、玄関の方へ向かっていった。


「はい、どちら様ぁ?」


 気だるそうに戸を開けると、そこにはカシールが立っていた。肩で息をしている。


「カシール? どうしたんだこんな夜中に……。それに、そんなに息を切らして、何か急ぎの用か?」


「まずいことになった……」


 父ははっとした。最悪の予想が現実になってしまった。

 襖の隙間から玄関を覗いていたカラルは、二人の話が気になった。


「あ、ちょっと、カラル!」


 母の制止を振り切り、カラルは玄関へ向かった。


「……カシールさん。何があったの?」


 カシールの顔に曇りが見えた。昼間に見た快活な彼とは、まるで別人のようだ。


「……カラル、今から大事な話をするから母さんと――」


「いや、戻らなくていい。今回の話はカラルにも関係のある話だ」


 カシールは父の言葉にかぶせるように言った。

 二人はカシールの方に向き直り、話し始めるのを待った。


「単刀直入に言うぞ。……もうすぐ戦が始まる」


 ついにその時が来たのか、とカラルは思った。


「西の国境、パルデ山脈の辺りにウサク王国の軍が集結している。かなりの規模だ。……それとカラル……」


 カシールはカラルの目を見た。その顔にはためらいの色が見える。

 カラルは息を飲んだ。


「今回の戦、全ての里で駆竜が徴収される……。健康な個体は全員……もちろん、リーハもだ」


 カラルは呆然と立ち尽くした。カシールも父も何か話を続けているが、水底にいるみたいに音がぼやけて聞こえる。鼓動がうるさい。

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