3話 下町の聖女
デウスの下町に来てから数日が過ぎた。
実佐は老人から借りた小さな空き家を手早く片づけ、
簡易ベッドと折り畳み机を入れて診療所に仕立てた。
表の扉には住人が書いた板切れがぶら下がっている。
そこには不器用な文字で「手当てと相談」とだけある。
朝は配給所の列が動き出す頃に扉を開け、
夜は尖塔の輪郭が闇に溶けるまで灯りを絶やさない。
子どもは彼女を見つけると駆け寄り、老人は腰を叩きながら中へ入り、
働きづめの親たちは昼休みの十五分を削ってでも顔を出した。
診療はいつもと同じだ。まず症状を聞き、喉や胸に手を当て、杖を軽く立てて術式を通す。咳が続く子にはディスペル、熱にはディスペルの後にヒール、裂傷には段階的なヒール。
効果が重なって光が消えた時、視界の隅でたまに表示が瞬き、淡く消える。
――LEVEL UP――
その数字は日に日に増え、三日目の夕方、
診療が途切れた瞬間に告げられた。
――LEVEL UP:Lv15――
魔力値とMPの最大値が伸び、さらにスキルの効果と回数が増えた事を実感する。
昼を過ぎると、診療所の隅に鍋が載る。
最初に野菜を持ってきてくれたのは、
昨日ヒールで手の震えが止まった縫い子の女性だった。
畑で細々と育てたという小さな玉ねぎと葉物、少量の豆。
次の日は工房の青年が曲がった人参を、
三日目は配給所の列で知り合った老婆が香りの強いハーブを包んで差し出す。
実佐は栄養ブロックを砕いて出汁代わりに溶き、野菜と一緒に煮込む。
温度が上がると香りが立ち上り、硬い空気にやわらかな甘みが混ざる。
味見をして塩加減を整えると、入口から何人もの鼻がのぞき込む。
「匂いだけで腹が鳴る」
「こんなにいい匂いのスープ、はじめてだ」
金属の器に注ぎ、まずは子どもと年寄りへ。次に働きに出る者、最後に手の空いた者。
食器が器を叩く音が規則的になり、ため息と小さな笑い声が交じり合う。
味付けは簡素でも、温かいものを一緒に囲むという行為は、
それ自体が食事を美味しくしたのだった。
食べ終えた人たちは口々に礼を言い、誰かが言う。
「聖女様のスープだ!」
実佐は「私は聖女じゃない」と毎回やんわり否定するが、
呼び名はいつの間にか町角に定着しつつあった。
午後は往診に出る。
居住棟の階段で足を挫いた青年、工具の刃で指を切った整備士、
発熱でぐったりした幼子、粉塵で喉を傷めた作業員。
狭い部屋ではエリアヒールを一度、間をおいてもう一度だけ。
術の余韻が薄まるたびに軽い疲労が肩に降りるが、
廊下の陰でマナリーフを小さく噛めばすぐに霞が晴れる。
治療の合間、住人は町の話を少しずつ教えてくれる。
尖塔の上に設けられた管理局が有機物生成機を制限しているとの事だった。
本来であれば無限にどんな食糧を生成できると聞いた時は驚きを隠せなかった。
少し制限が和らいで干し肉など生成できる日もあるみたいだったが、
祝祭の前後や上層の行事に合わせた気まぐれで、すぐ元に戻る。
素晴らしい装置だが、なぜか教会の管理局は最低限のものしか生成させていない。
栄養ブロックも味がなく、腹に落ちても力になりにくい。
だから畑は細々と続けられ、持ち寄る野菜が診療所の鍋に集まる。
それから、誰もが小声で語る話がある。夜更け、町から人が消える。
騒ぎにはならない。静かに、跡形もなく。
皆が口を閉ざすのは、誰がどこへ連れていくのか、知っているからだ。
「教会の聖職者」
何の目的かもわからないが戻ってきた者はいない。
光属性の素質がある人が連れて行かれるらしい事から、
聖職者にされていると推測されている。
実佐は首を横に振って心のざわめきを押し込む。できることを積み上げるしかない。
今日もディスペル、ヒールを使用して人々を助ける。
包帯を解いて消毒し、ヒールをかける。
術の光が皮膚の下から戻ってくるたび、患者は不思議そうに自分の体を見下ろす。
そして儀式のように同じ言葉を繰り返す。
「ありがとう、聖女様」
彼女は否定するのをあきらめ、短く頷き名前ではなく相手の手を握って返す。
夕方、配給所の列が短くなる頃、診療所の前に即席の長机が出る。
昼の残りを薄め直し、ハーブを一摘み追加する。
子どもが器を抱えたまま目を丸くし、老人は舌の上で味を確かめるようにゆっくり食べる。誰かが歌の出だしを口ずさみ、別の誰かが追いかける。
歌詞の多くは忘れ去られているが、旋律だけは生きている。
鍋が空になり、器が重ねられるころ、町の空は薄紫に沈み、
尖塔の輪郭は冷たい線に変わっていく。
その夜も診療所を閉める直前、若い母親が幼子を抱えて駆け込んできた。
頬は赤く、額は汗で濡れ、呼吸が浅い。
実佐はすぐに診察台へ寝かせ、額に手を当てる。
ディスペルで熱を冷まし、ヒールで炎症を鎮める。
幼子のまぶたが震えて開き、母の指を握り返した。
――LEVEL UP:Lv18――
治療を進めている中、実佐は重症度で経験値が多くもらえる事に気づいたのであった。
母親は何度も頭を下げ、帰り際に薄い布包みを置いた。
中には細い葱の束と小さなにんにくが二つあった。
扉を閉め、明かりを絞る。帰路は聖堂正面の広い道を避け、
工房と倉庫の境を斜めに縫う細い路地を選ぶ。
金属壁の隙間からは温風が時折吹き出し、古い配管がかすかに唸る。
角を一つ曲がったところで、靴底の音が後ろから重なった。
実佐は反射的に歩調を落とし、肩越しに視線だけを動かす。
影が三つ、距離を保ってついて来る。すぐに駆け出すか、灯りのある通りへ戻るか。
頭の中で選択肢が並び、どれにも危険が貼り付く。
さらに二つ角を曲がる。前方の通路は暗い。
壁の継ぎ目から滴る液体が黒い筋を作り、足音を吸い込む。
背後の三つの影は増えも減りもしない。
実佐は杖の位置を微調整し、いつでも魔力を流せるよう肩の力を抜く。
目の端に、左へ抜ける細い隙間が見えた。倉庫裏の通風路へ続く短い抜け道。
走れば逃げ切れるかもしれないが、追手がそこを知っていれば袋小路になる。
その瞬間、前方の暗がりから別の二つの影が滑り出た。
細い布を手に持ち、顔の下半分を覆っている。出入口を塞ぐ形。
背後の三つが距離を詰め、金属の床に靴の音が乾いて跳ねた。
「静かに」
低く乾いた声が耳に刺さる。
「騒げば、あんたもあんたの患者も困るぞ」
実佐は一歩退き、呼吸を整える。
五対一。魔力は十分ある。だがレイジもヘイストも、戦闘用に試したことがない。
相手が誰かも分からない。彼女は杖を下げ、目だけで相手の配置を測る。
「何の用かしら?」
「少し話をしたいだけだ。場所は変えてもらうがな」
後ろの影が近づき、腕を取ろうとした瞬間、実佐は身をひねって半歩外に出た。
だが相手も慣れている。すぐさま距離を詰め、もう一人が側面から布を差し出す。
薬品の匂いはしない。口止めか、目隠しか。周囲の家々は灯りを落としている。
助けを呼べば、周りの人を巻き込んでしまう。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。
「分かった。抵抗はしないわ」
実佐が小さく頷くと、布が目に当たり、世界が暗くなる。
杖は奪われないようしっかり握ったまま。
腕を掴む手は力強いが、暴力を振るわれるわけではない。
足運びは無駄がなく、金属床の上に一定のリズムを刻む。
連れ去られている、というより、運ばれている感覚に近い。
歩きながら、彼女は心のなかで短く唱える。
(マップ)
薄い立体図が黒い幕の裏で広がり、自分の位置が点になって動く。
聖堂の南側を弧を描くように抜け、倉庫群の端を横切り、斜め下へ移動している。
市場裏の搬入口。さらに下へ。階段。地下。
足元の感触が変わった。金属から石へ。
冷えた空気が肌に張り付き、遠くで低い機械音がくもって響く。
足音が止まり、目隠しが外れる。
薄暗い空間。
壁は粗い石積み、天井近くに低いパイプが通り、かすかな水滴の音が落ちる。
目の前に立つのは、さっきの影の一人。
顔の下半分を布で覆い、目だけが冷静にこちらを測っていた。
「ここなら邪魔は入らない」
その声は路地のものより落ち着いていた。複数の視線が、暗がりから実佐を刺す。
背後で扉が閉じる重い音がして、金属の鍵がかかる。
実佐は杖を下げ、逃げ道と障害物を一通り目に入れた。
やがて正面の影が一歩進み、布を外す。
「怖がらなくていい。俺たちは教会じゃない」
男の言葉に、周囲の空気がわずかに緩む。
しかしそれが安心に繋がるとは限らない。
教会でないなら、彼らは何者なのか。
男は短く続ける。
「陰からずっとあんたを見ていた。装置なしで人を治す女。
俺たちは、その理由を知りたい」
返答を選ぶ間もなく、別の扉の向こうで微かな足音がした。
内側から、規則的に、こちらへ近づいてくる。
影が二つ、灯りの輪に体の端だけを入れた。
実佐は息を整え、杖の握りを確かめる。扉が開く直前、心のどこかで自分へ呟いていた。(大丈夫。家族を探す手がかりが掴めるかもしれないわ。恐怖を隠すのよ)
扉の蝶番が軋み、新しい気配が流れ込む。
暗い地下室で、実佐はこの危機を家族のために乗り越える覚悟を決めるのであった。
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