母・実佐編
1話 新しい世界
「……ここは……どこ?」
耳に届いた自分の声は驚くほど小さく、湿った空気の中に吸い込まれていった。
視界がじわりと開けていくと、そこには見上げるほどの巨木が幾重にもそびえ立ち、
厚く重なった葉が空を覆っているのが見えた。
陽光はその間を縫うように細い筋となって差し込み、斑模様を描いて地面に落ちている。
鼻をくすぐるのは湿った土の匂いと、青葉の香りが混ざった濃い森の匂い。
胸いっぱいに吸い込むと、冷たく澄んだ空気が肺の奥まで届いた。
上半身を起こすと、背中がひやりと冷たく、草や落ち葉の感触が肌を通して伝わってくる。自分がどれほどこの場所で眠っていたのかは分からない。
ただ、耳に届くのは風が枝葉を揺らす音と、時折混ざる小鳥のさえずりだけ。
人の気配はどこにもない。
――どうして、私は森の中に?
考えようとした瞬間、視界が白く染まり、鮮やかな映像が脳裏に流れ込んだ。
それは夢ではない。あまりにも鮮烈で、現実の記憶のような確かさを伴っていた。
──柔らかな光の床が広がった。
白一色の空間。上下左右の感覚が曖昧で、実佐は無重力のように浮かんでいた。
正面に、青白い肌と銀の瞳を持つ少年がぬるりと現れる。
周囲には無数のホログラムと見慣れないゲームコントローラが漂っている。
「やあ、初めまして」
少年は片手を軽く上げて笑った。
「僕は君たちの言う“神”だよ。正確には、マルチバースを管理している存在の一柱だ。
君たちの世界に割り込みがあったから、対応してるとこ」
「……割り込み?」
「うん、別の神がね。君たちを転送させたんだ。で、僕が代わりに処理してる」
実佐は、ごくりと喉を鳴らした。
夫ジョージとよく見ていた“異世界もの”が脳裏をよぎる。
「まさか……私たち、異世界に?」
「うん。ファンタジー世界だね。楽しめる場所だよ」
「家族は、どこなの?」
「同じ世界に送るよ。
ただし、最初はバラバラの場所にランダム転送する事になっているけど
地球の半分くらいの大きさしかない場所だから、すぐ会えるよ」
「……よかった」
「それと、君たちにはスキルを付与する」
「私には、どんなスキル?」
「君は“ヒーラー”クラスだね。人を癒やし、仲間を強くする術をもっているクラスだよ。
君が家族を支え続けてきた経験が、そのまま形になっている。
共通スキルとして、鑑定・インベントリ・マップも付ける。
今回は迷惑をかけているから、おまけに経験値アップボーナスも奮発しちゃうよ」
「……ありがとう。人を治せるのはうれしいわ」
少年は目元を和らげた。
「うん、新しい世界で君のやりたい事の手助けになると思うよ。第2の人生楽しんできて」
その瞬間、空間が赤く染まり、耳障りなノイズが走った。
「えっ、なにこれ?」
神の表情が凍る。
「ちょっと待っ──」
バチバチッ、と赤い雷が亀裂になって走り、視界が暗転した。
──次の瞬間、森に転送されていた。
胸の鼓動は早い。けれど、怖さを押しのけるように深呼吸する。
「大丈夫、家族を探すわ。必ず合流するのよ」
白い杖がそばに落ちていた。先端の環が淡く光り、掌に吸い付くように馴染む。
「ステータス」
目の前に光の板が開き、文字が整然と並ぶ。
名前:瀬戸実佐
種族:Human
クラス:ヒーラー
年齢:31
称号:〇〇神の加護
レベル:1
HP:700
MP:770
攻撃力:50
防御力:100
体力:100
速度:400
魔力:500
運:50
装備:
- 《初期支給:プリーストローブ》
- 《初期支給:マジックワンド》
ヒーラースキル
-ヒール:対象にしたものを体力の50%回復する
-エリアヒール:自分含む半径5メートルの対象にしたものを体力の30%回復する
バッファースキル
-ディスペル:状態異常を無効化する
-レイジ:対象の攻撃力を2倍にする
共通スキル
鑑定:対象の情報を表示する
インベントリ:異空間に無機物のものを収納できる(容量は無限)
マップ:半径1キロの地図情報を表示する
ユニークスキル:獲得経験値500%アップ
「本当にゲームみたい……スキルを使うのははこうかしら?」
『マップ』
半透明の地形が立ち上がり、自分を示す点の北東に小さな光点が群れて瞬く。
実佐は方向を確かめ、森を進んだ。
遠くから水の気配。川が近い。
30分ほど歩いた先に小川に到着する。
丸石の間を小魚がすべり、光が水面に跳ね返る。
両手で水をすくい、口を湿らせた。冷たさが喉を通って胸に落ち、緊張がほどける。
斜面の陰で、薄く光る葉が揺れた。
『鑑定』
──マナリーフ:摂取または加工可能。使用時MPを500回復
掌ほどの葉に青白い脈が走り、指先に触れると微かな振動が伝わる。
根を傷めない角度を探り、30枚ほど静かに摘む。
「これは確かジョージと刃君がやっていたゲームでは魔法を使うために必要なポイントを回復するアイテムね。私にはピッタリね」
『インベントリ』
光が葉を包み、重みが消えた。表示が浮かぶ。
マナリーフ×30
「本当にここはファンタジー世界なのね……」
群生の周縁を崩さぬよう間引くように、さらに5枚を採る。合計35枚。
「これで当面は安心だわ」
その後、術の感触を確かめるため、実佐は小枝で手の甲にごく小さな擦り傷を作った。
『ヒール』
温い光が傷口を発光させ、傷が音もなく閉じていく。
魔力の流れは穏やかで、消費は最小限。
鼻の奥のむず痒さに意識を向ける。
『ディスペル』
花粉の刺激がふっと消え、呼吸が軽くなった。
「本当にあたし傷や病気を治せるのね。この力があれば家族を助けれるわ」
再び《マップ》を開く。小川の先には青い太線が見える。
大きな川と合流するようだ。流れは北東へ。
川沿いに進めば、マップ上の白い点があった場所に行けるはずだ。
道中、栗色の小獣が草叢から顔を出し、丸い耳をぴくりと動かした。
目を合わせすぎないように視線を少し逸らし、静かに通り過ぎる。
一度だけ振り返る。同じ形の木と岩が繰り返し現れる森は、方向感覚を奪う。
けれど、マップが背中を押してくれる。
白い空間での声が胸の奥にやさしく響く。
──楽しんできて。
恐れの隙間から、小さなわくわくが芽を出した。
未知の場所、未知の出会い、未知のファッション。
もしこの世界の素材で着物を仕立てたら、帯はどんな意匠が合うだろう。
布を染める水は川のどの辺が良いのか、植物の色素はどれが安定するのか、
考えるほど胸が軽くなる。
歩くたび、裾が風を受けてふわりと揺れた。
実佐はスキルが気になって、もう少し調べることにした。
『ヒール』『ディスペル』
「回復は瞬時に効果が現れるタイプ。“ディスペル”も同じ時間がかかるわね。
再使用をするには5秒ほど待たないといけないのね...
これなら重ねてかける事もできるわ。”レイジ”というスキルも試したいけど...」
ふと神様の言葉がよみがえる。
「仲間の攻撃力を上げる“レイジ”は君が家族を励まし続けた、
その行動がこのスキルを発現させた理由になってる」
「……私の“応援”が、力に?」
「うん。だから気負わなくていい。君がいつも通りに周りを思う気持ち事が術になる」
「本当に私の応援がそんな効果をもたらすのかしら?」
少年は目を細める。
「そうだよ。それがこれから行く世界の理だからね」
川沿いを歩きながら、実佐は足元の草を次々と『鑑定』した。
毒のある白い汁を持つ草は避け、食用になりそうな実は食べながら進んだ。
まずは人里への道を見つけ、次に寝床、それから食料。
頭の中で整理をする事によって不安や焦りをなくそうとしていた。
杖の握りを変えて重心を確認する。先端は軽く、付け根に細い芯。振り回すより、
支点や牽制に向く。風がローブの裾を鳴らし、肌の汗をさらっていく。
「レイジの効果もいつか試さないとね」
インベントリのマナリーフという表示をみて実佐は活用法を考えていた。
「粉末にできれば、量の調整もできるかしら?」
やがて木々の間隔が広がり、光が増す。
「……出口」
焦らず、歩幅を一定に保ち、根が張る浅い斜面を丁寧に下る。
前方に、色の違う帯が現れた。踏み固められた土がまっすぐに伸びている。
茂みを押し分け、視界が開けた。
一本の街道。砂利混じりの道面が陽を鈍く返し、両脇の草原が風で波立つ。
空は高く、薄い雲が羽のように流れていく。
地平線を見ると建物が複数密集している場所が確認できた。
集合住宅街のような構造を思い出させる。壁は銀色で、太陽の光を反射させていた。
「...不思議ね、ファンタジー世界にしては現代風な建築物だわ...」
屋根からは弱い筋の煙が出ていた。
「まずはあそこに向かってみましょう」
声に出して、迷いを形をなくす。言葉は、心の羅針盤だと常々実佐は思っていた。
足元の土は乾き、砂利が靴底でしゃらりと鳴る。
風は草原を渡り、青い波を次々と作っては崩していく。
空の青は濃く、薄い雲が羽根のようにほどけては結ばれる。
目覚めた場所はもう遠い。
けれど、あの静けさと冷たい水、光る葉の感触は、背中に残っている。
太陽の角度を確かめ、影の長さを測る。日が落ちる前に到着できるか確かめていた。
夜の森は音が増え、見えない危険が近づく。
街道をだいぶ進んだところで、彼女はもう一度だけ森の縁を見た。
深い緑は音を吸い込み、光の粒を散らしている。
胸の奥の小さな灯がぱちりと強くなった。
「待っててね」
誰に向けたのか自分でも分からない言葉を、空気が静かに受け止めた。
実佐は胸の奥で鼓動を数え、杖の握りを確かめた。
「まずは街へ到着したら、
家族を見つけるためにもこの世界について情報を集めないといけないわね。」
振り返れば、森は深い緑の壁。鳥の声だけが遠くで細く続く。
顔を前へ戻し、さらに進んだ。
「大丈夫。必ず会えるわ。絶対みんなを助けてみせるわ。
そのために今日を生き抜くのよ」
遠くの影を見据え、実佐は街道を進み続けた。
家族との再会を希望に、新しい世界への第一歩を踏み出す実佐であった。
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