五円の祈り
夏祭り当日の夕方、俺が向かった先は、またしてもあの神社だった。鳥居と、左右を囲むように伸びる木が見えてくる。葉同士が擦れあうザザァという音が、あたり一面にこだまして、それに鈴虫やカエルのメロディが混ざる。境内に入ると、むわっと熱気を感じ、服の襟を左右に動かした。境内にさやがいないのではないかと心配したが、杞憂だった。バイトが終わる時間帯に合わせたのが功を奏したらしい。さやはワンピース姿で社務所から出てくる所だった。
「さや」
俺に気づくた彼女はクルリと体をこちらに向け、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「今日は来ないのかと思った」
「遅くなっちゃったね」
「どうしたの?私もう帰ろうとしてたんだけど」
言うなら、今しかない。
「連れていきたいところがある」
彼女は当惑した表情になり、目を伏せた。
「……夏祭りのことなら、いけないって言った」
「分かってる。その上でお願いしてる」
「どういうこと?」
「俺に、君の後悔を乗り越える手伝いをさせてほしい」
「え、何を言ってるのかわかんないよ」
「お母さんに、花を供えに行かない?」
「辛いならゆっくりでもいい。それでもダメかな?」
「なんで?」
「私のために、なんでそこまでするの?」
彼女の目を見据えた。けれど、どう答えるべきだか分からない。五円玉をくれたから?お母さんの話をしてくれたから?この感情はどこに収斂していくのだろう。
「さあ、自分でも、分かんないや」
「君って、優しいっていうか、馬鹿だね」
「本当に一緒に行ってくれるの?」
「俺なんかでいいなら」
○
山道は仄暗い。鬱蒼とした木々に覆われて、生き物の息遣いが肌で分かる。しなびた枯葉が絨毯になり、どこかへと誘うように伸びていた。
「花は大丈夫?」
さやが訊いてきた。商店街で白いカーネーションを十本購入して、俺が預かっていたからだ。
「ちゃんと持ってるよ」
「なら良かった」
俺たちの目的地である事故の現場は、夏祭りが行われている麓からさらに奥まった崖にあると、さやが教えてくれた。彼女に目をやると、さっきよりも表情に緊張が増している。不意に、「ねえ」と声をかけられた。「なに?」と出来るだけ寄り添うような声で応じる。
「君のお母さんはさ、どんなお母さんなの?」
てっきり不安を打ち明けられると思っていたので少々意外だった。
「俺のお母さんかぁ」
母の姿を思い浮かべる。母は専業主婦で、寡黙な父とバランスを取るようによく喋る人で、一人暮らしを始めた今でも、一ヶ月に一回は家で作った野菜を送ってくるほどのお節介焼きだ。
「よく言えばおおらか、悪く言うならのんびり屋かな」
「君のお母さんはさ、君のことよく叱った?」
「子供の頃はよく叱られたよ。転んで襖を破った時とか、友達と喧嘩した時とかね」
思えば、母は些細なことで声を荒げたりはしない人だった。ただ、命に関わる事や、怪我をするほどのヤンチャには厳しかった。
「さやのお母さんは厳しい人だったの?」
「それと真逆。お母さんは、私を全然叱らない人だった。私がわがままを言っても『ごめんね』って謝るだけ。たまにさ、他の子が羨ましかったんだ」
「どうして?」
「『叱られてるうちが花』って言うでしょ?叱られないってことは、愛されてないんじゃないかって、怖くなるの」
「さやは自分が愛されてなかったと思うの?」
さやは目を瞑り、考える素振りをしてから「わかんない」と答えた。
「全く愛されてなかったわけではないと思うけど、どこかで呆れられてたのかもね」
「俺の実家に猫がいたんだよ。小さめの三毛猫」
さやは道端で知人にばったり会ったような驚いた表情をして「うん」と言った。
「その子が俺にだけ全く懐かなくて、それが悔しくてさ、猫のために色々した。餌やりとか、ブラッシングとか。それでも猫の態度は変わらなくて、まだ嫌われてるんだと思った。だけど、夜中に起きた時、布団の上で猫が寝てるのに気づいたんだ。俺が寝た後、こっそり布団に来てたんだ」
「つまり、どういうこと?」
「表には出さない愛情表現もあるってこと」
彼女は素っ気なく「そっか」と返し、目を伏せてから、「そうだったらいいね」と可笑しそうに笑った。その笑顔は本心のようでもあり、切ない強がりのようにも見える。胸をいっぱいにしたのは寂寥感だった。雲間に浮かぶ三日月のように淡く、儚い。ひゅうっと強い風が吹き、深い夜の匂いが二人の間を通り抜けて行った。
○
「ここだ」
草深い山道を抜けると、むき出しになった岩場が、そこだけ月光に切り取られたように照らされている場所があった。崖から弧を描くように木の柵が取り付けられている。おそらくは事故を受けた対策だろう。
「ここであってるんだよね?」
分かりきった質問をしたのは、自分の覚悟を確かめるためであり、さやに念を押すためでもあった。ここがさやのお母さんが最期に見た景色なのだと。
さやは、雨どいからこぼれ落ちるしずくのように、小さく「うん」と応えた。だが目線は、俺ではなく、崖の一点に張り付いている。口をボソボソと動かし、何かを呟く。
「なんでだろう、まだ信じられない。夢みたいっていうか。現実味がない」
本当に、夢を見ているようだった。どこか、恍惚しているようにも見える。俺は両肩に背負っていたリュックを下ろし、ジッパーを開いて花束を取り出す。両手で包み込むように持ち上げると、花特有の香気が鼻腔を満たした。筋肉が強ばらないよう気をつけながらさやに渡す。
「これ」
さやはぎこちない手つきで受け取り、崖際に近づくと、そっとしゃがんだ。
「お母さん。ごめんね」
暗がりで彼女の顔は見えないが、荒い息と、鼻をすする音で涙を流しているのだと分かる。
「ごめんね。私なんかで」
その言葉に、突然虚をつかれる思いがした。なぜだろう。以前どこかで聞いたことがある。こんな時なのに心臓が鳴り止まない。頭に染み渡るように、一つの情景が浮かんだ。路地に佇む女性の影、街灯に照らされてテラテラと光る茶髪に、官能的なメンソールの香り。
――彼女とか一生無理じゃない?
そう笑う彼女に、俺はなんて答えたんだっけ。
――こんな俺で、俺なんかで、ごめん
辛かった。悲しかった。でもそれ以上に、申し訳なかった。君を満足させるような男じゃなかったこと。君に惚れたのが、勝手に期待して、勝手に裏切られるような情けない男だったこと。今になってやっと気づく。俺の後悔は、愚かで痛々しい自分への憤りだったのだ。
「お母さん、私、ずっとわがままばかりだった」
さやは謝ることすら出来なかった。俺と違って、わだかまりを残したまま十二年も抱え込んでしまったんだ。いてもたってもいられなくなり、泣きじゃくるさやの隣に同じようにしゃがんで、語りかける。
「お母さんにさ、謝りたかったんだよね」
「謝れなかった。ずっと」
そう言うと、さやは両腕で花を抱えたままうずくまってしまった。噛み潰したような嗚咽が漏れる。遠くから、張った布をたたくような音が聞こえた。もう祭囃子が始まっているらしい。慣れ親しんだ太鼓の音も、どこかの異国のような寂しさを孕んでいる。そんな風に考えた瞬間だった。遠景の月がいつになく眩い光を放った。いや、正確には月ではない。空中が、月に重なる形で光った。その白く朧気な中心に、影絵のように人型の輪郭が浮かんでいる。俺を現実に引き戻したのは、さやの叫声だった。
「お母さん!」
光の方へ駆け寄ろうとして、細い胴は柵に阻まれる。それでも柵を飛び越える勢いで進もうとする。俺は両肩を掴んで制する。さやの泣き腫らした目が、縁取られたように浮かび上がった。身体をわなわなと震わせ、さやは叫んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、こんな子で」
喉を削るような、鋭く、掠れた声だった。
「でも、ありがとう、お母さんでいてくれて」
さやのお母さんは、それを聞くと頬を緩ませ、安心したような表情を見せた。それは紛れもなく、母が、我が子に向ける笑顔だった。
気がつくと、さっきまでの景色に戻っていた。岩場は何事も無かったように静まり返って、柔らかな月明かりを浴びている。さやは、緊張糸が切れたのか、その場にへたりこんでしまった。ふと顔を上げると、太鼓の音が聞こえてくる。断続的な音色は、森にこだまして、夏空に残響する。俺は両腕を広げて伸びをした。肺いっぱいに空気を吸って、空っぽになるまで、ゆっくりと、吐いた。
○
いつか、質山は言った。願いを叶えるには、『代償』が必要だと。俺は今回の一件で、確信した。『代償』なんて、最初から必要なかったのだと。祈る、という言葉は、元々は意「意(い)を宣(の)る」すなわち自分の意志を、神さまに宣言することに由来するようだ。つまり、「自分は必ずやこの目標を達成してみせるので、どうか温かく見守っていてください」と伝える行為だ。願いを叶えるのは自分であり、行動を起こすのも自分だ。
――どうか、どうか、さやと、さやのお母さんに、またご縁がありますように
「ちょっと、聞いてるの?」
不平をもらしたのはさやだった。俺は慌てて「なんて?」とあっけらかんに返す。境内の暑さは日を追う事に増しているが、俺はまだ神社に通っていた。
「だから、アイス買ってくるけど、チョコ味がいいの?コーヒー味がいいの?」
「えっと、それどっちも同じじゃない?」
「じゃ君の分はなし!」
俺が「待って、ごめんごめん」と平謝りをすると、さやは冗談めかして「ダメ!」と言う。言わずもがなだが、さやは、巫女を続けることにしたそうだ。理由を尋ねると、「この仕事、割と好きになっちゃったんだよね」と照れくさそうに笑った。あ、言い忘れていたが、俺も昨日からサークルに復帰した。きっかけは、後悔と向き合ったさやの姿に感化されたからだ。馬鹿みたいな理由だが、俺の丈にピッタリ合っていると思う。
「あ、そうだ。私お賽銭してから行こっと」
さやの突拍子もない発言に、思わず「なにを?」と反応してしまう。そんな俺を遠巻きにして、さやはスイスイと賽銭箱へ駆けていき、慣れた動作で手を合わす。少し間を置いて、軽快な音が響いた。五円玉を投げ入れる音だ。そして拍手をし、お辞儀をする。さやは何かを祈ってから俺の傍に戻ってきた。
「何をお願いしたの?」
そう訊くと、彼女は頬を赤らめた。いや、暑さで紅潮しているだけかもしれないが、俺には判断がつかない。俺がどぎまぎしていると、さやは目線を泳がせて、有耶無耶にするような調子で「内緒」と呟いた。
「うーん、強いて言うなら君に関係すること、かな」
悶々とする俺をよそに、彼女はまた、はにかむように口角を上げ、弾けるように笑った。
君とご縁がありますように―夏の境内で交差する俺たちの願いと後悔― 陽馬 @youba
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