第3話 禁忌の地
谷底は、風すらも忘れた世界だった。
時間の流れさえ止まってしまったかのような静寂の中、空間は歪み、色彩は失せ、ただ音と感情だけが、ゆっくりと沈んでいく。
そんな中で、少女は歩いてきた。
白銀の髪が黒の淵に浮かび上がるように揺れ、その外套はぼろぼろになりながらも、彼女の輪郭を守るかのように風に靡いた。まるで神の意思を纏う巫女のように――けれど、その瞳は今、確かにひとりの人間としての覚悟を宿していた。
その手が、耳元の飾りに触れる。
金属がひび割れる音が、やけに鮮明に響いた。
「これで……私も自由になれた」
その声は、どこか涙を堪えているようでもあった。
いや、もうとっくに涙など枯れていたのかもしれない。
ただ、それでも彼女の言葉の中には、微かな解放と、強い意志があった。
「私の名はイーヴァー。かつては神に仕える“使徒”だった。この地を守ることが任務だった。そして……必要があれば、あなたを排除する役目もあった」
彼女は真正面から彼を見据えた――いや、目を潰したカインにはそれが見えない。けれど、彼の中の別の感覚が、彼女の変化を読み取っていた。声の色。鼓動の速さ。足元に広がる感情の波。
「……ふぅ」
カインはゆっくりと立ち上がると、怨嗟の剣にそっと手を添えた。刃は冷たく、それでいて熱を孕んでいる。不思議な、矛盾する感触だ。まるで怒りと悲しみが同時に燃えているようだった。
「裏切り者の言葉なんて、普通なら信じない。だが……」
彼はゆっくりと、目のない顔で彼女の方を向いた。
「……あの耳飾りを壊す音が、お前の答えだ。俺は“そういう音”は信じられる」
その言葉に、イーヴァの目が微かに潤んだ。
「ありがとう」
短く、けれど深い言葉だった。
二人は静かに歩き出す。谷の底に横たわる廃墟のような世界を抜けながら、イーヴァーは言葉を紡いでいく。
「ここは『禁忌の世界』。神にとって不要となった存在が落とされる場所。……“神に背いた者”じゃないの。神に“とって”不要な者。つまり、使い道をなくした人間たちの墓場。その光景を見せるから肩に手を」
カインはイーヴァーの声のする方向へと手を伸ばす。
「ひゃっ!どこ触ってんの?」
カインの冷たい手はイーヴァーの脇腹に触れていた。
「もういい。自分でやる」
カインの手を握り、肩に乗せた。
彼女の指先が示す先にあったのは、山のようにそびえる石の塔だった。よく見ればそれは無数の石碑の集合体だった。名もない墓標に、かつての文字が無造作に刻まれている。
「記録の塔。死者を記録し、忘れさせるための……装置よ。神が人間を捨てる時、その記憶まで消そうとする。だから、ここでは時間も歴史も存在しない。生きた証も、罪も、赦しも、ただ無に溶けていく。この世界も」
「……クソみてぇな世界だ」
カインの唇が歪んだ。
「だが、剣だけは反応してる。ここに怨嗟がある限り、この剣は生きてる」
「あなたの剣。正式名称は『怨嗟の
カインは剣を見下ろした。刃が震えている。まるで応えるように、心の奥から声が湧き上がってくる。
――殺せ。
――思い出せ。
――何のために、ここに来たのか。
「剣の中には、まだ意識が残ってる。かつて神に抗った英雄たちの、魂の欠片。彼らの怒り、悲しみ、無念が、剣の中で燻ってる」
「……なら、俺がその怒りを受け継ぐ。見えないけどな、目の代わりに、こいつらが導いてくれるだろ」
「でも、それは危険でもある。あなたが彼らの怨嗟に呑まれれば、もう戻れない。意志を失ったら、あなたは……剣そのものになる」
「上等だ。俺はもう、神にも人間にも戻る気はない。けど、あいつら――まだ生きてる。かつての仲間や、裏切った奴らには、俺が終わりをもたらす。それだけが、俺の生きる理由だ」
イーヴァーは黙ってその言葉を聞き、やがて一歩、カインの隣に立つ。
「なら、私はあなたの“目”になる。あなたの意志が迷わないように、道を照らす。たとえ、その先が地獄でも」
「……本気で言ってるのか」
「ええ。神の使徒としてじゃなく、一人の人間として。私は、あなたを選ぶ」
言葉に迷いはなかった。少女は神を捨て、人間としての生を選んだ。裏切りでも反逆でもなく、それはただ一人の人間としての“選択”だった。
「……いいだろ。なら、行こうか。禁忌の世界を歩き尽くして――神を終わらせるために」
二人は並び、最初の都市跡――〈歪む集落〉へと歩みを進めた。
廃墟の空には空がなく、光もない。ただ一筋、黒く濁った風が吹いていた。
だがその中に、確かに希望にも似たものがあった。
誰かを信じた少女と、すべてを失った男。
ふたりが並んで歩く背中には、かつての神々も知らぬ、世界を変える意志が宿っていた。
断界のスピア~追放した世界を斬る~ 一色くじら @issyoku-kuzira
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