第2話 目亡き者、剣に挑む

 女の翼が羽ばたいた瞬間、空気が凍り付いた。

 繊細な風の震え、草の揺れをカインは足の裏に感じた。


 そして槍が空を突き抜ける音――。


「…来る」


 カインは地を滑るように動いた。

 鋼の風が横一文字に走り、空を裂く。

 女の一撃は、神の力を帯びた破壊の軌道だった。


 だが、刺突の瞬間――彼の左腕がその刃の内側に入り込む。


「っ!」


 女の眼が見開かれる。

 手の甲で受けた?!この男、見えてないはず…!


 その瞬間、彼の膝が女の足の間に滑り込み、肘が喉元に近づいた。

 体勢を崩した女の重心を、彼は逆らわず、ただ流した。


 ――力を力で受けず、流し、返す。


 ドン、と音を立てて神の使いの身体が地に転がった。


「ぐっは!」


 女は即座に体勢を立て直し、後退。

 剣を構え、警戒を深める。


「貴様……その技、ただの人間のものではないな?」


「俺は見えない。だが、聞こえる。刺突の風、草木のさざめき、呼吸の震え」


 彼はゆっくりと立つ。


「神の加護に満ちたお前にはわからないだろう。

 命を守るための戦いの音が、どれほど濁っているか」


 再び、剣閃。

 女は間合いを詰め、三連撃を放つ。

「神の斬撃、獅子王ししおう突き、天上返し」

 斬撃、突き、そして返し斬り――。


 だがそのすべてを、彼は“動きの前”に察知していた。

「……遅い」


 低くつぶやいた声とともに、彼の体が女の脇へと滑り込む。


「剣軌流し《けんきながし》」

 肘で剣の軌道を逸らし、女の腕を取ると、柔らかく地へと流す。


 次の瞬間、女の喉に彼の膝が触れていた。

 勝負は、ついていた。


「殺せ…」


 女は吐き捨てる。


「それが望みか?」


 カインは、拳を下ろし、イーヴァ―は目を閉じた。

 おでこにデコピンをするだけで、それ以外は何もしなかった。

「ふざけているのか?」


「俺が殺すのは自らを追放した者だけだ」

「納得できぬ」


「して、もらうつもりもない」

 彼女の声を頼りに横を見ながら、彼は吐き捨てた。


「お前はそこで見ていろ」

 彼は門を開き、剣の前まで歩いていく。


 門が開くと、剣の怨嗟は、より強くなった。

 内から響く声にカインはひざまずいた。


 ―――苦しみ、悲しみ、嘆き、怒り、怨嗟、呪詛。


「神に背いた者が、この剣に触れるなど…許されぬ…」


「ならば、俺を殺せばいい。許されぬ俺が剣を手にしてどうなるか、見届けずに済む」


 女は言葉を失った。

 その無力な問いに答えられるほど、神の命令は柔くなかった。


 剣を前に、男は跪く。


「…これが、俺の地獄の始まりか」


 手を伸ばした――

 黒く錆びた剣が、彼の手に応え、脈打った。


 墓標の怨嗟が止み、一瞬、神の気配が遠ざかったように感じられた。


 剣を握った瞬間、男の意識は沈んだ。


 墓標の中心に、彼はいた。

 墓標の前、血のような赤い紋が足元から広がり、剣に絡む黒い影が蠢きはじめた。


「……声が、聞こえる」


 剣から滲み出る怨嗟が、彼の耳に囁きかけていた。


「――返せ」「殺せ」「お前も死ね」


 無数の怒り、悲鳴、断末魔が聞こえる。

 彼の足がふらつき、膝をつく。意識が霞む。視界は元々ない。


「お前もまた、裏切られたのか……ならば、我らと共に──」


 目を閉じれば、闇の中に赤黒い渦が渦巻いていた。 その中心に、自分が立っている。 足元に、焼かれた村。泣き叫ぶ子。折られた剣。


「俺が…? こんな…」


 手に握る剣が熱い。 だが、冷たい。 自分の腕が、自分の意思を離れていくのがわかる。やがて男はその場で、膝を折った。


 怨嗟の剣に飲まれたのだった。



「うあああああああああッ!!」


 天地を割くような咆哮とともに、黒い霧が周囲に噴き出す。

 男の目は濁り、剣は不規則に、狂ったように振るわれた。


 一太刀で巨岩が裂ける。

 二太刀で地が抉れる。


「ッ――この女ァ!」


 暴走する彼は、剣を振るう。

 翼ある女がそれを間一髪で避ける。


「……!」


 彼女は咄嗟に感じた。

 これは“神”の力ではない。

 むしろ、“神の手の届かぬ”場所にある力だ。


「彼はもう、自分じゃない……あとは殺せば元通り」


 一歩、近づく。

 だが、その彼に一人の男の姿が重なる。

「父さん?」

「……イーヴァー頼……む」


「父さん!」

「……彼こそが」


 その瞬間、心の底から言葉が出る。

「やめて! 彼を連れて行かないで!」


 少女の声。凛とした、だが微かに震える声が、闇に割って入る。

 剣の周囲に集っていた影が、わずかに後ずさった。

 そこを見逃さない。イーヴァーは槍で一閃。

 怨嗟の闇を打ち払う。


 そして、少女は彼の前に立ち、手にしていた耳飾りを引き千切る。


 パキン──。


 乾いた音と共に、耳飾りが砕け、赤い光が霧散した。


「私はもう、神を信じない……信じて、家族を失った……もう、祈らない……!」

 彼はその声に、かつての仲間とは違う“真”を感じた。

 少女の手が、彼の頬に触れる。


「……戻ってきて」

 その声は心の深層まで響き、ゆっくりと、彼の意識が現実へと引き戻されていった。

「……なんで、俺なんかを…」


「わたしは、神を信じて戦ってきた。だけど――」

 彼女の声が震える。

「かつて、神は何も救いはしなかった村も家族も」


「……神は、『復讐のために所かまわず斬れ』と言った。けどあの頃といい、今といい不信感は募るばかり。そして決定打はその剣」

「この剣?」


「そう!その剣に私の父の顔を見た。 ……だから私は父を信じる。そして父が認めたあなたを信じる!」


 その時、男の瞳に浮かぶ幻影の中に、かつての村が現れた。


 燃える家。

 女の子をかばって倒れる男の影。

 その顔は――彼女の父だった。


「……! 俺が……?」


 涙が頬を伝う。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 先程までの無表情とは打って変わってだった。


 彼女は、剣を向けず、男を抱きしめた。

 怨嗟が、黒く震え、剣が軋む音を立てる。

 そして――


 音もなく、男の手から剣が滑り落ちた。



 二人は、しばらくそのまま黙っていた。


 やがて、彼女は立ち上がり、礼を言った。

 その時、怨嗟の剣と同じ感覚を彼女の胸元から感じた。


「その胸元の……それは……」

 彼女の目がわずかに揺れる。


「……父の形見」


 男の胸に、重く、熱いものが落ちた。

 言葉にならない想いが、確かにそこにあった。


 数日後、二人はかつての神殿を後にする。


 彼女はもう、神の命に縛られてはいなかった。

 男は、墓標の鞘を取り、剣を収めた。

 そして怨嗟の剣を肩に背負い、静かに歩いていた。


「これから、どこへ?」


「俺と同じように、追われた者たちを探す。

 そして、神に問う。

 本当にお前たちは――正義かと」


 彼女は黙ってうなずいた。

 吹かないはずの墓標に風が吹いたようだった。


 見上げた空に、何かが変わり始めた予感があった。

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