第3話『わたし、みたの!』



羽田空港の到着ロビーは、異様な空気に包まれていた。緊急着陸の報せを受け、待ち構えていた空港職員や報道陣。そして、安堵と疲労の入り混じった顔でゲートから出てくる乗客たち。わたしたち家族も、その人の波に揉まれながら、ようやく落ち着ける場所を探していた。


「とにかく、家に帰ろう。疲れただろう」


父がそう言って、わたしたちの肩を抱いた。母もこくこくと頷き、早くこの喧騒から逃れたいという表情を浮かべている。


でも、わたしは動けなかった。あの機内での出来事が、頭の中で繰り返し再生されている。エンジンの不調。激しい揺れ。機長の冷静な声。何かがおかしい。ただの乱気流や機体トラブルでは説明がつかない、パズルのピースが足りない感覚があった。


そして、脳裏に一つの光景が焼き付いていることに気づいた。パニックの最中、冷静に何かを操作していた男の姿。機体後方のトイレの近くで、他の乗客とは明らかに違う動きをしていた。その目は、獲物を狙う獣のように冷たく、光っていた。


「待って」


わたしは父の腕を振り払い、強い口調で言った。


「わたしは確かに見た!ハイジャック犯がいる!」


父と母が、怪訝な顔でわたしを見た。周りの人々も、わたしの叫び声に気づき、こちらに視線を向けている。


「何を言っているんだ。緊急着陸だったんだぞ。ハイジャックなら、もっと騒ぎになっているはずだ」

父が諭すように言う。しかし、わたしの確信は揺るがなかった。


「違う!あのトラブルは、事故じゃない。誰かが意図的に起こしたんだ!わたし、見たの!怪しい男がいた!」


わたしの必死の訴えに、父の表情が険しくなる。その声は、低く、威圧感を帯びていた。


「……確かなんだろうな?」


父はわたしの両肩を掴み、真っ直ぐに目を見つめてきた。その瞳の奥には、お前の戯言に付き合う気はないぞ、という警告の色が浮かんでいる。


「間違えは許されないぞ!? 証拠は?」


証拠。その言葉に、わたしは息を呑んだ。証拠なんてあるはずがない。パニックの中で見た、一瞬の光景だ。男の顔も、ぼんやりとしか思い出せない。けれど、あの冷たい目の光だけは、脳にこびりついて離れないのだ。


「証拠は……ない。でも、本当に見たの!信じて!」


わたしの声は、自分でも情けないほど震えていた。父は大きなため息をつき、掴んでいた肩から手を離した。その仕草が、お前にはもう期待しない、という拒絶のメッセージのように感じられた。


「もういい。疲れているんだ、お前は。早く帰るぞ」


父はそう言って、背を向けた。母も、「そうよ、きっと怖くて、何かと見間違えたのよ」とわたしをなだめようとする。


違う。見間違いじゃない。あの予感も、この確信も、全部繋がっている。このまま見過ごしたら、きっともっと大変なことになる。


「待ってってば!」


わたしはもう一度叫び、父の腕を掴んだ。その時だった。


「……そこのお嬢さん、少しよろしいですか?」


穏やかな、しかし芯のある声が背後からした。振り返ると、そこに立っていたのは、空港警察の制服を着た、少し年配の男性だった。その隣には、見覚えのある女性がいる。


凛とした佇まい。落ち着いた声。


「機長の、田中です」


彼女はそう名乗った。あの絶望的な状況で、わたしたちを導いた声の主だった。


警察官は、わたしの目をじっと見つめて言った。

「ハイジャック犯、と言いましたね。詳しく、聞かせていただけますか」


父が、驚きと戸惑いの表情でわたしと警察官を交互に見ている。


わたしの予感は、まだ終わっていなかった。本当の恐怖は、これから始まるのだと、直感が告げていた。わたしはごくりと唾を飲み込み、目の前の二人を見つめ返した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る