第2話『大丈夫!落ちついて!』
天井のパネルがガタガタと悲鳴を上げ、機体は木の葉のように翻弄され続けている。酸素マスクがぶら下がり、あちこちで子供の泣き声と大人の嗚咽が混じり合う。地獄とは、きっとこういう場所なのだろう。
わたしの手の中で、父の手が小刻みに震えているのが分かった。いつも厳格で、何事にも動じないはずの父が、完全に恐怖に支配されている。母は顔を覆い、祈りの言葉ともつかない声を漏らしていた。
このままでは、心が壊れてしまう。
「大丈夫!」
気づくと、わたしは叫んでいた。パニックに満ちた機内ではかき消されてしまいそうな声だったけれど、隣にいる父と母には、確かに届いていた。二人が弾かれたようにわたしを見る。その目には、なぜお前が、という驚きが浮かんでいた。
「大丈夫。きっと、大丈夫だから」
何の根拠もない言葉だった。けれど、そう口にすることで、自分自身にも言い聞かせているようだった。わたしは二人の手を、さらに強く握りしめた。冷たい指先に、必死でわたしの体温を分け与えるように。
その時だった。
ノイズ混じりのスピーカーが、再び命を宿した。先ほどとは違う、凛とした女性の声が響き渡る。
『皆様、ご安心ください。機長の田中です』
その声は、不思議なほど落ち着いていた。機内のざわめきが、ぴたりと止む。誰もがスピーカーに意識を集中させていた。
『エンジンの出力が不安定になりましたが、現在は制御下にあります。皆様の安全を最優先し、これより針路を変更いたします』
息を飲む音があちこちから聞こえる。どこへ行くのか。このまま、どこかへ不時着するのか。最悪のシナリオが、再び人々の脳裏をよぎった。
一瞬の間を置いて、機長ははっきりと告げた。
「この飛行機は引き返します、羽田へ」
その言葉が響いた瞬間、張り詰めていた機内の空気が、ぷつりと音を立てて切れた。誰からともなく、嗚咽とも歓声ともつかない声が上がる。安堵のため息が、波のように広がっていった。
「……よかった」
母が、わたしの肩に顔をうずめて泣き崩れた。父は、天井を仰いだまま、大きく息を吐き出した。握られた手から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。
飛行機がゆっくりと旋回を始める。窓の外の分厚い雲を抜けると、眼下に宝石をちりばめたような東京の夜景が広がっていた。さっきまで絶望の色しか見えなかった窓が、今は希望の光で満たされている。
どれくらいの時間が経っただろう。機体が高度を下げ、滑走路の誘導灯がすぐそこに見えてきた。
ゴゴゴゴッ、という轟音と共に、タイヤが地面を捉える。生還を告げる激しい衝撃。その瞬間、機内は割れんばかりの拍手に包まれた。誰もが泣きながら笑い、見ず知らずの隣人と肩を叩き合っていた。
飛行機が完全に停止し、機内に安堵の静寂が戻る。
「……お前の言う通りだったな」
ぽつりと、父が言った。わたしを見ると、その目にはもう恐怖の色はなかった。そこにあるのは、理解しがたいものを見るような、そしてどこかバツの悪そうな、複雑な感情だった。
母も泣き腫らした目でわたしを見つめ、「ごめんね」と小さく呟いた。
わたしは何も言わず、ただ首を横に振った。
嫌な予感は当たってしまったけれど、家族は無事だった。シートベルトを外し、立ち上がろうとしたその時、わたしは気づく。
苦手だったはずの飛行機。
その中で、わたしは初めて、父と母を守ろうとしていた。
もう、ただ守られるだけの子供じゃない。わたしたち三人を繋ぐ手の温もりの中で、何かが確かに変わった。羽田空港のまばゆい光が、新しい朝の始まりのように、わたしたちを照らしていた。
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