『予感』

志乃原七海

第1話「わたし、飛行機苦手ー」



「わたし、飛行機苦手ー」


これから家族旅行だというのに、わたしは搭乗ゲート前の椅子に深く沈み込みながら、父と母にそう伝えた。大きく切り取られた窓の向こうには、今からわたしたちを乗せて空を飛ぶ、巨大な鉄の塊が鎮座している。


「いつものことだろ?大丈夫、大丈夫」


隣に座る父は、新聞から目を離さずに言った。その声には、慣れっこ、という響きが混じっている。わたしは昔から、この閉鎖された空間と、自分の力ではどうにもならないという無力感がどうしようもなく苦手だった。


でも、今日はいつもと違う。


「ううん、なんか……嫌な予感がする」


胸の奥が、冷たい手でぎゅっと掴まれたような感覚。それはいつもの高所への恐怖とは質の違う、もっとざらついた、生々しい不安だった。


その言葉を聞いた瞬間、母がぴくりと体をこわばらせた。手にしていた旅行雑誌をパタンと閉じ、わたしの顔を睨みつける。

「やめて、縁起でもない!楽しい旅行の前になんてこと言うの」


母の焦ったような声が、やけに大きく響いた。父も、ようやく新聞から顔を上げた。その眉間には、深いしわが刻まれている。


「わたし。たぶん!この飛行機!きっと……」


きっと、何か良くないことが起きる。そう続けようとした言葉は、鋭い声に遮られた。


「やめなさいと、言っているだろう」


父だった。その声は低く、有無を言わせぬ響きを持っていた。わたしは唇を噛み、うつむく。父も母も、わたしの不安をただの気まぐれか、旅行に水を差すわがままだとしか思っていない。


機内に乗り込むと、その予感はさらに強くなった。いつもは気にならない機械油の匂いや、空調の音が、やけに神経に障る。席についてシートベルトを締めると、まるで拘束具のように感じられた。


やがて飛行機は滑走路を走り出し、ふわりと体を浮かせる。窓の外の景色が、どんどん小さくなっていく。わたしの心臓は、エンジンの轟音と張り合うように激しく鼓動していた。


安定飛行に入り、シートベルト着用のサインが消える。母は「ほら、何も起きないじゃない」と得意げに言い、父は機内サービスのコーヒーを静かに飲んでいる。わたしだけが、プラスチックの壁の冷たさにおびえながら、身を固くしていた。


その時だった。


ガコンッ、と床下から鈍い金属音が響き、機体が大きく揺れた。一度だけではない。断続的に突き上げるような衝撃が、わたしたちを襲う。コーヒーカップが宙を舞い、短い悲鳴があちこちから上がった。


「ただいま、当機は激しい乱気流に遭遇しております。皆様、お席にお戻りになり、シートベルトを……」


冷静さを装う機長の震えたアナウンスが、途中で不自然に途切れた。そして、一瞬の静寂。その沈黙が、何よりも恐ろしかった。


「おい、どうしたんだ……」


父の声が震えている。母は血の気の引いた顔で、お守りを握りしめていた。もう「縁起でもない」なんて言葉は出てこない。


わたしは、不思議と冷静だった。ああ、やっぱり、と思った。あの予感は、これだったのだ。恐怖の正体がはっきりしたことで、逆に腹が据わったのかもしれない。


わたしは、隣で固まっている父の手を握った。いつも大きく、厳格な父の手が、小さく震えている。


「大丈夫」


わたしが言うと、父は驚いたようにこちらを見た。その目には、怯えと、そして初めて見る戸惑いの色が浮かんでいた。


「お前……」


父は何かを言いかけたが、再び機体を襲った衝撃に言葉を飲み込んだ。機内はパニックに包まれ、悲鳴と嗚咽が満ちていく。


でも、わたしたち家族三人は、ただ黙って手を握り合っていた。父の大きな手。母の冷たい手。そして、その二つの手を繋ぐわたしの手。


嫌な予感は、当たってしまった。

でも、この温もりだけは、失いたくない。


わたしは窓の外の、どこまでも広がる暗い雲を見つめながら、強く、そう思った。

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