毒味役長屋絵草紙 木漏れ日の道
第一章:毒の目覚め
朝霧が潔目処家の庭を白く閉ざし、竹林の葉擦れが、まるで滅びの予兆のように低く響く。
陽光は若葉を透かし、石畳に淡い光を投げかけるが、その光はまるで儚く、家族の絆を脆く映し出す。
私の手は、台所の暗がりで、息子・新左衛門の膳に毒を忍ばせる。
無味無臭の亜ヒ酸――その微細な粉末が、潔目処家の掟を私の指先に刻む。
夫・安兵衛の厳かな背中、長男・左馬之丞の凛とした箸さばき、次男・新左衛門の純粋な眼差し――
それらを守るため、私は母としての心を押し殺し、毒を握る。
だが、昨夜の記憶は霧のように曖昧だ。
新左衛門が腹を押さえ、嘔吐に苦しむ姿が、まるで夢の断片のように脳裏に浮かぶ。
毒を盛ったのは、果たしてこの手だったのか。それとも、別の誰かの手だったのか。
記憶は揺らぎ、定かでない。
左馬之丞の指先は紫に腫れ、微熱に苛まれている。
彼の病は、白鼠の咬み傷から始まったと、藩医・染谷草庵は告げた。
あの白鼠――左馬之丞が提案し、藩主の膳を守った純白の生き物が、今、わが子を蝕む。
私の心は、毒味役の宿命と、母としての罪悪感に引き裂かれる。
朝餉の支度を終え、膳を運ぶ私の手は微かに震える。
志乃が台所の隅で私を見つめる。彼女の瞳には、姉としての優しさと、娘としての葛藤が宿る。
「母上、今日は私が膳を運びます」と、彼女の声は小さく、しかし力強い。
私は一瞬、彼女の意図を測りかね、頷く。
志乃の手が膳に触れる瞬間、彼女の指先がわずかに震えたように見えた。
だが、霧に霞む私の記憶は、その真実を捉えきれず、ただ竹林のさざめきが耳に響く。
第二章:膳のすり替え、絆のすり減り
昼下がり、潔目処家の屋敷は,まるで息を潜めるように静寂に沈んでいた。
左馬之丞は縁側に寄りかかり、鉄箸を握る力すら失いつつある。
黄色く濁った瞳が、遠くの竹林を虚ろに眺める。
新左衛門は床に伏し、青白い顔に冷や汗を滲ませ、昨夜の嘔吐の余波に耐えている。
私は彼の傍らに膝をつき、濡れた布で額を拭う。
「新左衛門、試練だよ。耐えておくれ」と、私の声は優しく、しかしどこか遠い。
毒味役の家に生まれた息子に、毒に耐える強さを植え付けるのは私の務めだ。
だが、心の奥で、母としての愛が叫ぶ。
この苦しみが、わが子を鍛えるのか、それとも壊すのか――その答えを、私はまだ持たない。
志乃が部屋の隅に立ち、私をじっと見つめる。
「母上、新左衛門はまだ幼いのです。試練が厳しすぎます」と、彼女の声は鋭く、私の胸を刺す。
私は一瞬、言葉を失い、彼女の瞳に宿る決意を見る。
「志乃、潔目処家の掟を知っているだろう。毒味役は、毒に耐えてこそ務めを果たせる」と、私は答えるが、声は震える。
志乃は唇を噛み、目を伏せる。
「母上、もし新左衛門が命を落としたら――その試練に、何の意味があるのですか。」
その言葉は、私の心に冷たい刃を突き立てる。
昨夜、志乃が台所で何かをしていた――その影が、霧のように脳裏をよぎる。
だが、掴もうとするほど遠ざかる。
夕餉の支度を始める私の手は、まるで別の生き物のように動く。
亜ヒ酸の瓶を手に取り、微量を新左衛門の膳に混ぜる。
私の指は冷たく、汗ばむ。
潔目処家の名を守るため、息子を鍛え上げるため――そう自分に言い聞かせるが、心の奥で何かが軋む。
志乃が再び台所に現れ、「母上、今日は私が料理をします」と言う。
彼女の瞳には、反抗と愛が交錯する。
私は無言で頷き、彼女に台所を譲る。
だが、彼女が膳を運ぶ背中に、奇妙な不安が広がる。
私の記憶は、霧の中で揺らぎ、志乃の手が膳に何をしたのか、定かでない。
第三章:白鼠は夢を喰む
夜が更け、潔目処家の屋敷は月明かりに照らされる。
竹林のさざめきが、まるで運命の足音のように響く。
私は新左衛門の床の傍に座し、彼の浅い息遣いを聞く。
左馬之丞は自室にこもり、病に苛まれる身体を静かに抱えている。
白鼠の毒味――あれが、こんな災厄を招くとは。私は、息子を信じた自分の愚かさを呪った。
だが、記憶がまた揺らぐ。
白鼠は誰の手によって選ばれたのか。左馬之丞か、それとも…誰かの影か。霧が思考を覆い、答えは遠ざかるばかりだった。
突然、庭先から微かな物音が響く。
私は立ち上がり、障子を開ける。
月光の下、左馬之丞が這うように庭に出る姿が見える。
彼の手には刀が握られ、黄色く濁った瞳が闇を切り裂く。
「新左衛門、志乃…守る…!」
彼の叫びが夜を裂き、私は一瞬、凍りつく。
白鼠の幻が彼を襲う――彼の病んだ心が見せる悪夢だ。
刀を振り下ろすその姿は、かつての凛々しい長男ではなく、死と踊る亡魂のようだった。
次の瞬間、彼の身体は石畳に崩れ落ち、月光がその亡骸を静かに包む。
私は動けず、ただ立ち尽くす。
志乃が駆け寄り、左馬之丞の亡骸に触れ、涙で濡れた声で叫ぶ。
「兄上…!」
新左衛門もまた、床から這うように庭に出て、兄の冷たい手を見つめる。
私の心は砕け散り、記憶が霧の彼方へ溶ける。
左馬之丞が斃れた瞬間、私の手が毒を握った記憶が、まるで別の女の仕業のように遠ざかる。
潔目処家の長男が死に、夫・安兵衛の亡魂が私の背に重くのしかかる。
私は母として、妻として、何を間違えたのか――記憶は答えをくれず、ただ竹林のさざめきが響く。
第四章:狂気の淵
左馬之丞の死から、時は霧のように流れ、私は自らの心を見失う。
朝ごとに新左衛門の膳に毒を盛る手は、まるで私の意志を超えて動く。
潔目処家の名を守るため、息子を真の毒味役に鍛え上げるため――そう繰り返すが、
昨日の自分が何をしたのか――その記憶は、霧の中で千切れ、指先からこぼれ落ちていく。
志乃の視線が、まるで刃のように私を貫く。
「母上、もうやめてください。新左衛門は限界です」と、彼女は台所の暗がりで私に迫る。
彼女の瞳には、姉としての愛と、母への絶望が宿る。
「志乃、潔目処家の掟を知っているだろう。毒に耐えねば、藩主の命を守れぬ」と、私は答えるが、声は虚ろだ。
志乃は一歩踏み出し、震える声で言う。
「母上、父上も兄上も、毒で死にました。掟が家族を殺したのです!」
その言葉は、私の胸に冷たい刃を突き刺す。
記憶がまた揺らぎ、志乃が膳をすり替える影が脳裏をよぎる。
彼女が新左衛門を守るために、私に逆らう――その事実が、私の心をさらに狂気の淵へ追いやる。
「志乃、お前は…私の試練を妨げるのか?」
私の声は低く、まるで別人のように響く。
志乃は涙をこらえ、静かに首を振る。
「母上、私は新左衛門を守りたいだけです。」
その夜、膳を用意する私の手は、まるで呪われたように毒を握る。
亜ヒ酸を茶に、水に、さらには新左衛門の寝具にまで忍ばせる。
「他人の毒で死ぬくらいなら、この母の毒で死になさい」――その言葉が、私の口を裂いて出た。
だが、それが私自身の声だったのか、定かではない。
志乃が膳を運ぶ背中を見ながら、私は彼女の裏切りを知る。
彼女の手が、毒をすり替える――その確信が、私の心を暗い淵へ沈める。
だが、霧が私の記憶を覆い、私はただ竹林のさざめきに耳を傾ける。
第五章:砕けた絆
新左衛門は、毒の試練に耐えながら、青白い顔で床に伏す。
千草が届ける薬包みが、彼の命を辛うじてつなぐ。
彼女の瞳には、左馬之丞を救えなかった自責と、新左衛門を救う決意が宿る。
私は彼女の薬を手にし、湯に溶かして新左衛門に飲ませる。
だが、その手は震え、記憶がまた曖昧になる。
薬を盛ったのは私か、志乃か。
記憶は霧の中で千切れ、指先からこぼれ落ちていく。
新左衛門の身体は汗に濡れ、厠に通う回数が増える。
私はそれを試練の成果と信じ、毒の量を増やす。
だが、志乃の視線が、私の背に突き刺さる。
私は知っている。
志乃が、私の毒をすり替えている――その確信が、胸の奥に静かに沈んでいる。
ある日、親友・藤川義高が屋敷を訪れる。
彼の明るい笑顔が、新左衛門の心を軽やかに解きほぐす。
「新左衛門、怖くねえだろ? 俺と尻を並べて野ぐそすればいいさ!」
その言葉は、毒に満ちた屋敷に、ほんの一瞬だけ春風のような光を差し込んだ。
私は台所の暗がりからその笑い声を聞き、かつての家族の温もりを思い出す。
だが、記憶はまた霧に溶け、左馬之丞の黄色い瞳が私の脳裏をよぎる。
私は何を失ったのか――夫を、長男を、そして私の心を。
竹林のさざめきが、まるで私の罪を囁くように響く。
夜、志乃が再び私に迫る。
「母上、もうやめてください。新左衛門を殺すつもりですか?」
彼女の声は涙に濡れ、姉としての決意が宿る。
私は一瞬、彼女の瞳に母の自分を見る。
「志乃、お前は潔目処家の娘だ。掟を裏切るのか?」
私の声は冷たく、まるで別人のようだ。
志乃は拳を握り、叫ぶ。
「母上、掟が家族を壊したのです! 私は新左衛門を、母上を、守りたい!」
その言葉は、私の心を砕き、かつて母であった私を静かに殺した。
記憶が霧に溶け、志乃のすり替え、千草の薬、左馬之丞の死――すべてが絡み合い、私はただ立ち尽くす。
第六章:朝霧の旅立ち
朝霧が潔目処家の庭を白く霞ませ、竹林のさざめきが遠い希望の調べを響かせる。
陽光は若葉を透かし、石畳に柔らかな影を刻む。
私は新左衛門の床の傍に座し、彼の浅い息遣いを聞く。
彼の顔は青白いが、千草の薬と志乃のすり替えにより、回復の兆しを見せる。
私はその姿を見つめ、胸に秘めた罪悪感が波のように押し寄せる。
夫・安兵衛の死、左馬之丞の斃れた夜、そして私の毒を握る手――すべてが、潔目処家の名を守るための試練だったはずだ。
だが、記憶は霧に覆われ、私の手が何をしたのか、定かでない。
志乃が庭に立ち、小さな刀で形を刻む。
彼女の動きは未熟だが、内に秘めた決意が宿る。
私は彼女の背を見つめ、かつての自分を見る。
娘として、妻として、母として、私は何を守りたかったのか。
左馬之丞の叫び「新左衛門、志乃…守る…!」が、霧の中で響く。
毒を握る手をそっと下ろし、私は静かに立ち上がった。
潔目処家の掟は、私の心を砕き、家族を蝕んだ。
もう、これ以上、わが子を試練に晒すことはできない。
夜明け前、朝霧が屋敷を白く包む。
誰にも告げぬまま、私は静かに家を出た。
手に握るのは、かつて安兵衛が愛用した鉄箸一対――重く、冷たく、それでも掌に馴染む温もりが、かつての夫の記憶を呼び起こす。
竹林のさざめきが背を押し、苔むした道祖神の石が、何も語らず、ただ私の旅立ちを見守っていた。
私は振り返らず、霧の彼方へ歩を進める。
新左衛門の未来、志乃の決意、そして潔目処家の新たな道を、遠くから祈りながら――。
月明かりが霧に溶け、竹林のさざめきは、まるで私の名を呼ぶように響く。
だが、私はただ歩む。
誰にも気づかれず、潔目処家の影を背負い、朝霧の中へ消える。
『ケツメド!! 毒味役長屋絵草紙』 をはち @kaginoo8
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