第10話
部室は静かだった。その空気感に三人の肩が滲んでいて、そのうちの一人は微かに震えていた。俺はその震える肩を抱き寄せる想像をしたが、そんな度胸などあるわけがなく、震える肩をじっと見つめることしかできなかった。
「夏川先輩って、彼女さんとかいるんですか?」
震える肩は、俺にそう尋ねた。今にも泣きだしそうなくらいの潤んだ瞳さえも震えているように見える。黒目がちらちらと動いている。俺の
とっさに隣を見た。愛宮がいる。なにも言えず、無言でたたずむ愛宮は、俺よりも悩んでいるように見える。ここで愛宮を頼るのは違うのだろう。愛宮も困ってしまう。
「どうして、愛宮先輩を見るんですか?」
俺は、なにか選択を間違えたのではないか。どうしてこうなってしまったのか。それを反復するように思い出していた。全ての始まりを、その見えない結末を、俺は思い出しながら想像していた。
*
その女子生徒は、なぜか頻繁に俺の視界に入っていた。目立たず、ただ一人で、俺の視界に映っていた。それに気付いたのは、少し後になってからだった。俺はその女子生徒のことを露ほども知らずにいた。名前も顔も、なにも知らない。俺はそこに女子生徒がいるという事実しか頭に残らなかった。
俺は教室で孤独に本を読んでいた。四月の初旬頃、クラスメイトとは普通に喋っていたのだが、だんだんとその談笑や会話は軽薄になり、いつの間にか教室では誰とも喋らなくなった。いわゆる、ぼっち。だが、学年で一番有名人である愛宮と付き合っていることにはなっているので、一般的なぼっちとはかなり
ぼっちだが、クラスや二学年の人間に俺は認知されている。なんとも不思議な状態である。愛宮と付き合っていることになった当初は、周囲の人間からは注目され、祝福され、かなり目立っていた。が、青春とは一過性だ。その盛り上がりは徐々に薄れ、波はおさまり、俺はただの夏川信也(ぼっち)となった。
注目をされると無駄にカロリーを消費するので、このぼっち状態はありがたいが、なんだか寂しくなった気もする。
愛宮の近況はどうだろう。あいつは相変わらず人気者で目立っているのだろうか。少なくとも俺のように孤独に読書を楽しむプロぼっちにはなっていないのだと思う。あいつには外見と目立つには十分な才能がある。だからやはり、あいつがぼっちになるということはありえないのだろう。
「あの子、さっきからずっとこっち見てね?」
隣で談笑するクラスメイトの声が耳に入った。そういう話を聞いてしまうと気になる。読んでいた本から視線をそらし、ドア付近のほうを見る。立っている女子生徒と目が合った。女子生徒はとっさに去っていった。
「あ、どっか行った」
「なんだったんだ?」
女子生徒はどこかへ行った。俺と目が合って逃げたのか? いや、なんだそれ。俺が怖いのか。孤独なぼっちはそんなに怖いのか。なんにも怖いところなんてないんだが。なんだろう。なんかすごく、傷つく。
昼休みの時間にも、その女子生徒は俺のクラスにやって来た。相変わらずドア付近に立って誰かを見ているように見える。
今日の昼ご飯は、母が作ってくれた弁当である。普段は購買でメロンパンを買うのだが、今日の母はなぜか張り切っていた。弁当にも力がこめられている気がする。なにか良いことでもあったのだろう。俺は小さく感謝して弁当を頂いた。
クラスメイトとともに食べる昼食は、初夏の訪れとともに消失した。俺はやはりどの時間もぼっち。
「あの子、また来てるな」
「誰か声かけてこいよ」
隣で談笑していたクラスメイトが、またドア付近の女子生徒について話している。なんだ、また来てるのか。なんの用で来ているのだろう。誰かを探しているのか、誰かを見ているのか。
「っていうかあの子、夏川のこと見てるっぽいよな」
え、俺? いや、違うでしょ。多分、あの子と俺、全く接点ないよ? 俺、マジであの子のこと知らないし。俺のこと見に来てるわけじゃないでしょ。冗談よしなさいよ。
クラスメイトの一人が、俺の元に近づいて話しかけてきた。学校で誰かに話しかけられるって、久しぶり。
「夏川、ドア付近に他合ってるあの子、知り合い?」
うわ、どうしよう。どんな対応しよう。こんなふうに話しかけてもらえるの嬉しいわ。久々。本当に久々。ぼっちに人権をくれてありがとう。久々のクラスメイトとの会話に歓喜し、俺は無理やり口角をあげた。なんだろう。鏡を見てなくても不敵な笑みになっている気がする。
「いや、知らないな。今朝もいたようだが、俺は知らない」
なんだかぎこちない返答。元々コミュニケーションが苦手なのもあり、それが加速した。クラスメイトは特に気にしていないようだった。
俺はドアの前に立つ女子生徒を見た。じっと見つめていると、俺と目が合った。すると慌てたように、また去っていった。この流れはいったいなんなんだ。俺があの子を見ると去っているように見えて仕方ない。
「お前のファンかなんかか?」
クラスメイトが笑って冗談っぽく言った。
「それはないだろ」
俺は冗談を返すことはなかった。なにも冗談が思い浮かばなかった。クラスメイトはまだ俺の隣に立っている。俺は弁当に入っている唐揚げを頬張った。冷たい。俺の返答みたいに冷たかった。それでも味付けは完璧だった。ありがとう、母よ。
「それか、愛宮のファンか? 夏川、お前まだ愛宮と続いてるんだろ?」
愛宮のファン。たしかにその線があるかもしれない。噂が噂を呼んで、俺が愛宮と付き合っているという表面上の事実が、あの子の元にも届いたのかもしれない。あの女子生徒は、愛宮のファンだろう。
「まあ、ぼちぼちだよ」
クラスメイトにそう返事をした。俺の言葉はなにも面白味がないらしく、クラスメイトは離れ、グループの元に戻った。隣でまた談笑が始まった。くだらない話をしている。俺もそんな青春を送りたい。そんな願望を抱き、弁当を食った。いつもより美味い気がする。
それにしても、愛宮のファンであれば愛宮に直接会いに行けばいいのではないか。なぜ俺の元に来るのか。本当に俺のファンだったりするのか? ……いや、ないな。こんな地味で陰キャなぼっちにどうやってファンがつくのか。ありえない。全く持ってありえないことである。
その日も、部活動が始まった。とはいったものの、部誌の刊行は終わったので、しばらくやることは少ない。というか、本当にやることがない。読書をして執筆のためのインプットをしたり、お茶を淹れて飲んだり、お茶とともに菓子をつまんだり。それらくらいしかやることがないのだ。
部誌は年に四回ほど刊行される。季節ごとである。以前に刊行した部誌は春号なので、次に俺たちが忙しくなるのは夏休み前である。
「暇だねぇ。平和だねぇ」
愛宮がだらけて呟いた。「夏号の部誌に向けて今のうちに執筆進めるよ!」と先ほどまでは気合を入れていたくせに、ノートパソコンの前で眠たそうな目をこすっている。
部活動としては退屈な時間。だからといって、部活動が行われている時間帯において、部室内に誰もいないという状態は学校側としてあまりよくないらしい。やることがなくても部室にはいなくてはならないのだ。
「ぐはぁ~」
愛宮がとうとう机に突っ伏した。ノートパソコンも閉じられた。少なくとも今日このあとの時間は、こいつが執筆に向かうことはない。間違いなかった。
とはいえ俺も退屈である。インプットと称して読書をしているが、窓から入る暖かな日差しが心地よくて、全く本の内容が頭に入らない。眠い。眠ってしまいたい。
机に突っ伏した愛宮が動かなくなった。こいつ、寝た。
そんなとき、部室のドアが開いた。
「あの、すみません」
開かれたドアの前に立っていたのは、小柄な女子生徒だった。肩の上で微かに外ハネになっている髪が印象的である。俺は、この女子生徒を知っていた。いや、覚えていたといったほうが正しいか。彼女は、今朝と昼休みに、俺のクラスに来ていた女子生徒だ。
「ここって文芸部で合ってますか? 私、文芸部の見学で来たんですど」
「ああ、見学か。文芸部で合ってるよ」
見た目が小柄だったので、勝手に一年生だと思い、砕けた口調で迎えた。
「ありがとうございます! 私、一年の早瀬香織です。運動が苦手で、でも部活はどこかに入りたくて……入部を決意するまでちょっと遅れちゃったんですけど」
「ああ、歓迎する」
どうやら一年生で合っているようだった。俺と早瀬が会話をしていると、机に突っ伏していた愛宮が立ち上がった。
「ごめん、眠ってた」
「起きたか、愛宮。こちら見学希望の一年生。早瀬さんだ」
俺が紹介すると、愛宮は目を輝かせた。
「えー! 新しい部員!? 嬉しい! 私、愛宮奏です!」
見学希望と紹介したはずなんだが。寝ぼけて話を聞いていなかったらしい。
「よ、よろしくお願いします」
早瀬は愛宮の態度に少々戸惑っていた。
今思えば、早瀬香織を文芸部に迎えたことが、俺にとっての間違いだったのかもしれない。いや、だって、こんな純粋そうな面持ちをした女子生徒が地雷だなんて思わないだろう。
早瀬の手を握り、無理やり握手をする愛宮。その光景が、とても平和に見えた。
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