第9話

 姉貴がそこにいた。俺はその刹那、体が硬直した。なにも言えなかった。なぜここに姉貴がいるのか。その疑問だけが、頭の中を巡っている。姉貴は口角をにたりと不吉に上げながらこちらを見ている。このまま黙って逃げ出してしまおうか。そんなことを本気で思った。


「本当に偶然だねぇ。出かけるとは言ってたけど、まさかここにいるとはね」


 姉貴の口角が下がらない。こうして揶揄するような口調でいるということは、姉貴はこうなることを意図的に狙っていたのかもしれない。


「そうやって言ってるけど、偶然じゃないだろ。どうせここにいると思ってわざと来たんだろ?」


 俺はようやく冷静になって言葉を発することができた。姉貴の口角は下がらない。やはり、姉貴は意図的にここへ来たのだろう。本当にムカつくバカ姉貴だ。こんな嫌がらせをしてなにが楽しいというのか。このにやついた表情を見ていると腹が立って仕方がない。それだというのに俺は、このバカ姉貴に上手く怒りをぶつけることができない。昔からそうだった。


「こんなところで立ち話もなんだし、どこか店に入らない?」


 姉貴が明るく提案をした。キョロキョロとわざとらしく辺りを見回しながら、店を探している。今いるフロアにある店は雑貨屋と本屋だったので、姉貴はすぐにこちらに視線を戻した。


「べつに俺たちは姉貴と話すことはないんだが」


「私が話したいんだよ。あ、そうだ! 今日、お父さんとお母さんが出かけてていないからうちに来たらいいじゃん。お茶くらい出させてよ」


 姉貴はきっと、ベストな提案をしていると思っているのだろう。だがそれは姉貴の中だけの話であり、俺たちにとっては――少なくとも俺にとっては全くベストではない。


 すっかり意識から薄れていた愛宮のほうを見た。少し緊張した表情を見せている。不安そうな面持ちで俺をのほうを見た。どうやら愛宮にとっても、姉貴の提案は良いものではないようだ。


「さて、行こうか」


 姉貴は相変わらずの明るい口調で言った。俺と愛宮は顔を見合わせた。愛宮の表情は形容しがたいものだった。どんな感情で、姉貴のことを認知しているのだろう。


 ショッピングモールから出て、姉貴、俺、愛宮の三人で帰り道を歩いた。太陽が眩しい。時刻は午後三時過ぎ。朝早くに起きたぶんの眠気が微かにある。だが、眠いなどと言っている場合ではない。今、目の前には姉貴がいる。愛宮もいる。そんな異常な状況で、眠気がどうなどと言っていられない。


「それにしてもだんだん暑くなってきてるよねぇ。まあでもそれもそうか。もう五月だもんね」


「そう……ですね」


 愛宮が硬く返事をした。姉貴の前で緊張しているのを肌で感じる。愛宮に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。俺は姉貴がムカつくので相槌すら打たずにただ歩く。


「そういえば名前を聞いてなかったね。そちらの子はなんて名前?」


 姉貴が愛宮に尋ねた。愛宮はいつもより小さい声で、


「愛宮奏です」


 今にも震えそうな声で名乗った。


「いいよ、愛宮。この人はどうせ名前も顔も覚えてくれないから」


 俺がとっさにフォローした。フォローになっているだろうか。姉貴は記憶力がゴミカスなので、きっと愛宮のことは覚えない。その事実を言っただけになってしまった。


「はははっ! たまに信也の顔すら忘れることがあるからね!」


 姉貴が大きな声で笑う。愛宮は小さく微笑んだ。いいよ、愛宮。こんなことに笑みをこぼさなくていいよ。


 愛宮の緊張はだんだんと薄くなっていっている気がした。こいつも人見知りというものをするらしい。いつもの様子から見ると、誰にでも話しかけられるような印象を受けていたので、意外な一面だった。


「愛宮ちゃん、めちゃくちゃ美人だねぇ~」


 愛宮は「いえいえ……」と小さくこぼした。いつもの愛宮だったらそう言われてどんな反応をするのだろうと、つい想像してしまった。


 自宅に到着した。姉貴がうながすまま、俺たちはリビングに通された。愛宮がカバンをどこに置こうか悩む所作を見せていたので、俺が受け取り、ソファの上に置いた。俺がテーブルの前に座ると、愛宮も遠慮がちに腰かけた。最大限、気を遣っているのが分かる。こいつ、こういうときは常識人っぽく見える。


 姉貴はお茶を淹れ始めた。緑茶の香りがリビングに漂っている。さすがに俺もなにか手伝わないといけない気がして、なにかお菓子がないか棚を探した。


「手伝ってくれるなんてらしくないね。カッコつけてるな?」


「黙れ」


「ふふふ」


 姉貴は不気味に笑った。傍から見れば微笑だ。だが、俺にとっては不気味にうつる。その不気味な笑みを、俺は以前にも見たことがある。それを思い出して、今この瞬間にうつっている笑みと比べた。なにも変わってなどいなかった。


「そういえば名乗り遅れたね。私、信也の姉の透子っていいます」


 名乗るの遅すぎるだろ。めちゃくちゃ時間空いたよ? もうこのまま名乗らないのかと思ったよ? ゲームとかアニメによく出てくるミステリアスなキャラクターかよ。


「改めまして、愛宮奏です」


 愛宮も改めて名乗った。姉貴は飄々ひょうひょうとしている。対する愛宮はまだ緊張していて静かである。初対面の姉貴の前で、いつも通りの愛宮があらわれたらそれはそれで引くが、もうこの際、いつも通りの愛宮になってくれたほうが状況がなにか変わるのではないか。そんなことさえ思う。


「お姉さんは大学生なんですか?」


 愛宮が尋ねた。ここでようやく自然な会話の出だしが、愛宮から放たれた。


「うん。一応ね。単位が楽に欲しい限界大学生」


「そのうち辞めそうだな」


 俺が挟んだ。


「卒業くらいはちゃんとするつもりだよ」


 姉貴にそんななにかを貫く意志などあるのだろうか。大学を卒業せずに中退して、まともに働くことなく、ニートをやっている未来が見える。もはや誰かに嫁いだほうがいいのではないか。いや、こいつは専業主婦すらできない人間だろう。


 姉貴は緑茶を三杯淹れてくれた。俺は棚の奥にあった煎餅せんべいを皿に盛り、テーブルに出した。これでお茶の席っぽくはなっただろう。


「ところで、二人はどんな関係なの? 付き合ってるの?」


 席に着いた姉貴が、質問を投げかけた。すすった熱々の緑茶を一気に飲み込んでしまい、むせた。こいつは質問にも容赦がない。一番気になっていることではあるだろうが、俺にとっては一番聞いてほしくない疑問だった。


「やめろ、姉貴」


 姉貴はまたにやりと笑う。俺が嫌がっていることを楽しんでいる。俺の反応をうかがって、そういう質問をしている。


「いいじゃないの、べつに。どういう関係なのか。姉的には知っておきたいのさ」


 俺たちの関係をどう話そうか、迷った。少し間があいて俺が答えようとしたが、どう話すべきなのか、俺には難しかった。愛宮のほうを見た。愛宮はまっすぐに姉貴を見つめ、姉貴に言うべき言葉を吟味しているように見えた。そして、


「付き合ってます」


 愛宮が言った。姉貴には疑似交際のことを話さない。それが愛宮の決意であるようだ。俺もその意思に合わせることにした。


「あれ~? そうなの? 信也からはそういうんじゃないって聞いた気がしたんだけんどなぁ。信也、隠してたんだ」


 姉貴は俺を揶揄している。ここまで人をバカにできるのはもはや才能だ。そしてその揶揄は、単なる揶揄ではない。姉貴はひどく性格が悪い。俺は昔のことを思い出していた。姉貴に関する嫌な記憶。それが今、もう一度、起こってしまうのではないか。そう思い、俺は怖くなった。


「付き合ってるならね。いいこと教えておいてあげる」


 姉貴は緑茶を一口すすったあと、口元を指でなぞった。潤った唇からもれ出すだろう言葉に、俺は体を硬直させた。


「恋愛はね、依存で始まって、依存で終わるんだよ」


 始まった。昔の記憶が思い起こされた。自宅に恋人を連れてくると、姉貴はこうして恋を否定する。純粋な想いすら否定し、そこになにも残さぬよう、消し去る。姉貴はそういう奴だ。その行為の意図が俺には分からない。俺のことを嫌っているのか、俺の恋を嫌っているのか、真意は一つも分からない。


「恋愛っていうのは、結局、依存関係だよ。そこに純粋なものなんてない。愛なんてない。相手を大事にしたいなんて想いも、最後には嘘になる。だって本質は依存だもの」


 愛宮がうつむいた。こうして恋を否定されて、悔しそうな様子がうかがえた。


 これで、終わりだ。こうして愛宮も、俺との関係を終わらせるのだろう。疑似交際ではあるが、愛宮は俺との関係を終わらせるのだ。もうこれで、なにもなくなる。


「私は、恋愛がよく分かりません」


 愛宮が言った。きっぱりと言い放った。


「じゃあよかったね。今回で知見が増えて」


「でも、恋愛が単なる依存だとは思いません」


 いつもとは違う。質のいい違和感。それを愛宮の言葉に感じたのか、愛宮に感じたのか、分からない。でも昔の姉貴との悲惨な記憶を繰り返す要因からは、はるかに離れているように思えた。


「恋の始まりは依存かもしれません。その終わりも依存に近いのかもしれません。でも、その依存を乗り越えることで、本当の恋になるんだと思います」


 愛宮は至って真剣だった。あまりにもまっすぐな双眸そうぼう。判然とした言の葉に、姉貴は瞳を丸くしていた。


「依存のまま、恋が発展しなかったら?」


「そういう可能性もあるっていう話だと思います」


 姉貴は笑っている。その笑みに言葉を添えた。


「ふーん。愛宮ちゃんは恋に相当な自信があるわけだね」


 愛宮はなにも言わなかった。なにも言えなかったのだと思う。愛宮は恋が分からない。まっすぐに真実と自分の意思を述べるその口からは、きっと嘘は言えないのだ。


「もういいだろ。愛宮、今日は帰ろう」


 俺は二人の会話を半ば強引に断ち切り、愛宮に告げた。愛宮は黙ってうなずき、立ち上がった。


「まあ、二人とも、お幸せに~」


 沈み切ったリビングをあとに、玄関をくぐった。最寄り駅まで、愛宮を送ることにした。空は夕焼けが彩っている。風が小さく吹くと、俺は静寂の音色を割くように、愛宮に言った。


「姉貴が変なことを言ってすまん」


 愛宮はこちらを見ると、笑った。特になにも気にしていないように見える。


「私もなんだか失礼なことを言っちゃったかも」


「あのバカ姉貴にはあれくらい言ったほうがいいんだよ」


 俺は姉貴に逆らえない。独特な論理で、姉貴はいつも俺を負かす。だから今回も、会話を無理やり断ち切るといった強引な方法しか取れなかった。


「そっか」


 愛宮が安堵して前を向いた。


「愛宮」


 また、風が吹いた。微かに遠くから車のエンジン音が聞こえる。静寂はそのあと遅れて訪れた。


「ありがとうな」


 俺は、愛宮にそう告げた。


「ん? なにが?」


 いつか愛宮に言われた、「ありがとう」


 その意味は、今の俺と同じ気持ちだったのかもしれない。





 愛宮を駅に送り、自宅に戻った。姉貴の顔を見たくなかったので玄関から直接自室に行こうとすると、姉貴はわざわざリビングのドアを開け、俺に話しかけた。


「なんだよ」


「あの愛宮って子さぁ」


「まだなんかあるのかよ」


 俺は少々いらだった。ここで怒れば子どものよう。そう思い、冷静になろうと尽力した。


「私、昔に会ったことがある気がするんだよねぇ」


「姉貴の記憶力は頼りにならないから、気のせいだろ」


「言うねぇ。でも、たしかにそうか」


 姉貴を通り過ぎ、自室に入った。ベッドに寝転ぶと、自然と眠気に襲われた。明日は日曜日だ。このまま寝てしまっても、特に問題はない。


 眠気と安堵をともにして、俺は眠りについた。心地よい気分だった。

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