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 鼻から息を吸うと、春の香りがする。母親にそう言うと、何の香りなのよと毎回突っ込まれるが、十四年と十ヶ月ぽっち生きてみても分かるはずもなかった。春は、四季の中で一番好きな季節だ。川沿いの桜並木が見事に満開になる。出店が所狭しと並んで、桜祭りが賑わう。琴音は、そんな街を傍目に学校に向かう。


 短い春休みは一瞬にして通り過ぎ、あっという間に桜は散り始め、中学三年生になってしまった。大人になりたくないと心の底から思っているのに、無情にも日々は過ぎていくし、あと二ヶ月もしたら十五歳になる。なんだか一年が過ぎるのがどんどん早くなっている気がして、不安になる。こんなの、あっという間に死ぬんじゃないか。そうなったら、さすがに後悔しないように生きたいかもしれない。


 こんな感じで、くだらないことばかり考えながら足を動かしていれば、すぐに学校に到着する。

 家から徒歩十分の場所にある中高一貫校に、中学受験をして進学した。進学率が良い中高一貫の学校が家の近くにあるなんて、親からしたら通わせない理由がなかったのだろう。母親は、小学五年生の琴音を塾に放り込んで受験勉強に取り組ませた。元々出来は良い方だったので、復習には特に苦労することもなく、受験対策の知識を詰め込むことに集中して勉強ができた。特に第二志望などは決めずに、そこに落ちたら公立の学校に行こうと思っていたら、普通に受かって、何事もなく進学が決まった。

 入学してからも勉強についていけないことはなく、常に学年の成績の中の上あたりを走っていた。飛び抜けて得意な科目は英語と国語と理科、比較的苦手な科目は社会科と数学。文系とも理系とも言い難い、そんな感じ。

 素行さえ良ければ高校へ上がれるので、将来の不安というと、死後の世界はどんな感じなのかとか、死期が近いことがわかっていても怖いのかとか、大人に言わせたらくだらないことばかりだった。


 新学年というと、やはりクラス替えに緊張する。

 中学校舎の前の大きな掲示板に全学年のクラスが張り出される。琴音はだいたい特進の一組を除いて、二組から探し始めることに決めているが、中二の時は六組だったので探すのにやたらと時間がかかってしまった。

 クラス替えにおいて大事なのは、何組かではない。誰と同じクラスになるか、だ。仲がいい子と同じになるのも嬉しいが、苦手な子を回避できるのも嬉しい。

 緊張と不安と期待と、色々な感情が混ざったままで、自分の名前を探し始める。


「ことーおはよー」


 声をかけてきたのは友人の理華だ。中一の時に、同じクラスだったことをきっかけに仲良くなり、中二も同じクラスだった。


「あ、理華おはよ、何組だった?」


「五組、ちなみに、ことも五組」


「え、ネタバレ、同じなのは嬉しいけども」


 まだ三組の名列を見ている琴音の横に来て、堂々ネタバレをお見舞いされた。

 理華はさっぱりとした性格をしていて、一緒にいても気をつかわないから楽だった。理華との時間の中で流れる沈黙は、言葉通りの沈黙だった。意味付けされない沈黙を共有できる友人というのは稀だった。

 理華は、その姉御肌な性格からか、他クラスの女子からも人気があって、琴音の数倍は友達が多かった。それなのに、どちらかというと大人しい琴音と仲良くし続けてくれていて、感謝しかない。

 今年も理華と同じクラスであることに安堵しながら、五組の名列を見に行く。


「なんか、サッカー部多いな」


「ね、それ理華も思った」


 サッカー部は明るい人が多い。その明るさが苦手なわけではないけど、かと言って、特別仲がいい人がいるわけでもなかった。でも、集団になったら授業中とかうるさそうだな。


「うるさそうだよね、大勢いると」


「え、それ今私も思ってた」


「おそろ」


 そう言いながらいたずらっぽく片方の口角だけをあげて微笑む理華は、なんともあざとい感じで、琴音はいつも真似できないなと思って見ていた。

 理華はとにかく顔が可愛い。アナウンサーにいそうな、綺麗と可愛いのいいとこ取りをした顔で、所作も少しあざとかった。一度本人にわざとなのか問うたことがあるが、そんなわけないじゃんと漢らしくガハガハと爆笑されて、自分の浅はかさを恥じたことがある。

 当然、男子からの評判も良く、同学年の男子はもちろんのこと、中二の時は一つ上の先輩から告白をされていたりした。でも、肝心の理華は恋愛に全く興味がないらしく、付き合って何になるんだろうと頻繁に口にしていた。残酷ではあるが、なんとも理華らしい振る舞いだった。


 教室に上がると、早速教壇の周りでサッカー部が輪になっていた。


「おー、やってるやってる」


 理華が遠く離れたところから絶対に聞こえない声量で茶々を入れていた。

 サッカー部はなんとなくカースト上位なイメージがあるけど、個人でいるとそこまでの影響力はない。ただ、集団になると、その馬鹿みたいに大きな声量のせいか存在感がすごい。そもそも、カーストって何を基準に決められるのだろう。自分は全体のどのあたりに位置しているのだろう。くだらない疑問が次々に湧いてくる。

 そんなことは置いといて、自分の席に着く。

 なんともラッキーなことに、今年の出席番号は十八番。あ行の生徒がやたらと多く、初めて出席番号順の席が一番後ろの列だった。最後列が一番教師の目線に入っているというが、内職をする気はないのでそんなことはどうでも良く、みんなを一番後ろから見渡すという優越感こそが醍醐味だった。

 理華の苗字は渡辺で、うちの学年には和田がいないので毎年最後列が確定している。それが毎年羨ましかったので、今年は理華と同じように後ろからみんなを見渡すことができて心底嬉しかった。


「小宮山さん」


「ああ、岡野くん。おはよう」


 サッカー部の岡野優斗くんにいきなり声をかけられて、少し驚く。教壇の輪から抜けて、わざわざ話しかけに来たのだろうか。

 岡野くんとは去年も同じクラスで、席が近くになることが多かったので、あまり勉強が得意ではない岡野くんに個別授業を開く休み時間が何度かあったりした。


「今年もよろしくね」


「あ、今年もちゃんと授業聞くんだよー」


「はーい、先生」


 岡野くんはケタケタと笑いながら教壇に戻っていった。


「相変わらず岡野って、こと気に入ってんなー」


 荷物を置いた理華が、笑いながら琴音の席に近づいてくる。


「理華、そういうんじゃないから」


「わかってるって、ことをからかいたいだけ」


 理華は去年から、岡野くんは琴音の事を気に入っているとしょっちゅう言っていた。

 岡野くんは明るく陽気な人で、クラスどころか学年の中心人物で、常に周りに人がいた。学年の中で割と大人しい方に分類される琴音とは正反対だし、勉強を教える時くらいしか話すこともなかった。

 気に入られるようなことをした記憶もなく、たまたま席が近くてよく勉強を教えてくれるから、側から見たら気に入っているように見えてしまうのだろうと琴音は思っていた。


 朝のチャイムが鳴り、先生が入ってくる。

 今年は英語科の山縣先生が担任だった。山縣先生はずいぶん昔からうちの学校で教えている優しいおじいちゃんの先生で、あと数年で引退だからねーが口癖だった。怒ったらすごく怖いらしいという噂がまことしやかに囁かれているが、誰も怒ったところは見たことがなく、その説はもはや伝説になりかけていた。

 あまり興味もない山縣先生のまったりとしたお話を、なんとなく聞く。

 始業式あるあるの、今年も頑張りましょう的な話だった。


「普通なら高校受験の年ですが、みなさんはそのまま持ち上がりということでどうしても弛んでくる時期でもありますね。僕がみなさんの帯をしっかり締め直して差し上げますから、安心して弛んでくださいね。遊びに真剣になるのも、長い人生では意外と大事なんですよー」


 なんだか、山縣先生が言うと説得力が違うな。遊びに真剣になる、か。

 遊びでも、遊びじゃなくても、何か一つのことに真剣になったことがない気がする。中一の時から所属している華道部の大会でも、琴音は器用なタイプだったので、毎回ほどほどに良い成績を取ることができた。恋愛でも、失敗をしたことがないわけではなくて、挑戦をしたことがない。好きかも、と思っても自分に自信もないし、チャレンジをしようとしないから、気持ちをなかったことにするばかりだった。

 こういう生き方をしていると、どこかで皺寄せが来そうだと最近はずっと不安を覚えている。ひたむきな努力や大小様々な挫折がきっと人間を成長させるだろう。でも私は、いつ挑戦をするんだろう。挑戦しないことに慣れてしまうと、挑戦の仕方がわからなくなってくる。


「…さーん」

「小宮山さーん」


「はっ、なんかあった?」


 隣の席から岡野くんに声をかけられて、我に帰る。ぼうっと考え込み過ぎて、違う世界に行ってしまったみたいだ。ホームルームはとっくに終わったようで、この後の学年集会に向けてみんな散らばり始めていた。


「ホームルーム終わったよ。ぼーっとしてるから、何かあったのかと思って。大丈夫?」


「あ、大丈夫、大丈夫。ごめんね」


 完全に自分の世界に入っていた顔を、岡野くんに見られていたことが恥ずかしくなって、理華の席に走っていく。


「ちょっと、ホームルーム終わってるなら教えてよ」


「あーごめんごめん、ちょっとささくれ取りたくて。どうした?」


「なんもないけどさ…」


 理華は片手にちいさな爪切りを持って、目を丸くしてこちらを見ている。

 これじゃ、私は完全に変なやつだ。そもそもそんなに恥ずかしがることでもなかったような気がしてきた。岡野くんのことも、私のオーバーなリアクションで驚かせてしまっただろうか。申し訳ない。


 先ほどまでの岡野くんに対する変な緊張を引きずったまま、気だるい足を動かしてノロノロと移動をする。わざわざ移動したのに、学年集会は瞬く間に終わっていて、後から自分がうたた寝していたことに気づいた。教室に戻りながら理華に内容を尋ねたが、さっきのホームルームと同じようなこと話していたよと言われ、開催する意味あったのかなと思わず考えてしまった。



「こと、部活行くわ。じゃあね」


「がんばれー、ばいばーい」


 吹奏楽部の練習に向かう理華を見送って、誰もいなくなった教室で帰る準備をした。荷物が少ない日だけ使うショルダーバッグには、去年買った犬のキャラクターのキーホルダーが揺れている。

 太陽が高いところにある時間に帰宅するのは非日常な感じがして、なんだか気持ちが良かった。

 琴音は今日、長袖のシャツの袖を捲りあげて、ベストを着ていた。家までの道のりを歩いているだけで少し汗ばんでくる。四月ってこんなに暑かったっけ。あ、地球温暖化ってやつか。困るな。暑がりなんだよな。なるべく涼しい期間は長い方がいいよな。春も秋も短くなっている気がする。


 相変わらずくだらないことを考えていると、あっという間に家に着く。お母さんもお父さんも働いているからまだ帰ってこない。中三はちょっとくらい本気を出して勉強をしようかな。その前にお菓子食べようかな。


「ただいまー」


 誰もいない家中に琴音の声が響く。

 新しく始まる中学最後の一年に、少しだけ胸が弾む。でも、今年も何も変わらない日常を望んでいる。理華と仲良くして、それ以外は程よく渡り歩いていければいい。毎日少しだけ楽しい日々になりますように。


 ・


 歳をとるごとに日々が過ぎるのがあっという間になるという言説は多分本当で、琴音もまだ十四歳だというのに、ぼーっとしていたら四月もゴールデンウィークも終わっていた。

 しかも、今年はゴールデンと名乗っていいほどの連休ではなく、理華とのお出かけの計画も早々に頓挫し、二人の家の中間地点にあるシェイキーズで豪遊しただけになってしまった。

 やらなきゃいけないことをこなすだけで、自分から挑戦したいこととかを探さないから、日々を必死に生きていないから、毎日がただ過ぎていくだけになってしまうのだろうか。十五歳の目標は脱・受け身とかにしようか。


 五月も中盤に差し掛かると、先生たちは中間試験対策の授業や特別補習をし始める。

 中間試験の結果次第で夏休みの補習の有無が決まるので、運動部の子達は夏の練習に参加するべく、この時期だけ勉強に本気を出すのがもはや恒例になっている。

 琴音は試験結果に困った事がなかったので、試験前に少し復習するだけで足りるし、特別補習とは無縁だった。

 ただ、琴音の試験準備期間には恒例行事があった。


「小宮山先生、よろしいでしょうか…」


 昼休みになると、岡野くんが私を先生呼びしながら腰を低くしてそろそろと寄ってくる。これが岡野くんが勉強を教えてほしいときの合図だった。本人は無意識なのだろうが、琴音は去年からずっとこれを見ているのでもう察するようになってきた。

 一緒にお昼を食べていた理華はくすくすと笑いながら、あくまでも興味はなさげに本を読み始めた。


「はい、岡野くん。なんでしょう」


「現在完了系が授業真面目に聞いてもさっぱりで…」


「だと思ったー、授業中首傾げてるの見えてたよ」


 四限の英語の授業中、岡野くんは首を斜め四十五度に曲げて黒板を見ていた。

 五月の頭に席替えをして、琴音はまたしても最後列の六列目、岡野くんは前から三列目を引いたので、授業中に岡野くんが小首を傾げているのが丸見えだった。わざわざ言われなくても、岡野くんはあそこがわからないんだな、と一目見てわかる。

 表情や態度に全てが出てしまう岡野くんは、後ろから見ていて飽きなかった。


「げ、本当に?このままじゃ補習確定なのよ、俺本当に夏練出たいのよ」


 岡野くんはしゃがんで机に腕を置き、子犬のような眼で琴音を見上げた。お前、その表情が武器か。思わずそう言いそうになって、必死に抑える。

 まったく、理華といい岡野くんといい、あざとすぎるだろう。これが現代の処世術なのだろうか。そうなのだとしたら、琴音はあざとさと無縁すぎて世を渡れる気がしなかった。


「よし、やりましょう」


「小宮山先生ー!今年もカフェラテ奢ります」


「ごちです」


 個別勉強会の会費は、食堂に売っているパックのカフェラテで賄われている。

 琴音は中一の時からそのカフェラテが大好きで、ほぼ毎日昼休みに飲んでいた。それをなぜか岡野くんは知っていて、琴音に授業をお願いするときは頼んでもないのに毎度カフェラテを買ってきてくれた。

 最初は申し訳ないと思っていたが、結構質の高い授業をしているという自負があったので、次第に断らなくなっていった。

 結局、今回の試験準備期間を含んだ試験週間の二週間で、岡野くんに五杯のカフェラテをご馳走になった。これに対して理華は


「教わりすぎだろ」「奢られすぎだろ」


 と岡野くんと琴音の両方にツッコミを入れていた。まあ、確かに奢られすぎだと思うが、この関係は利害が一致しているし、お互いがそれでいいと思っているならいいだろう(それに加えて、岡野くんはご実家がお金持ちなので、多分カフェラテくらいの出費は痛くも痒くもないのだと思う)。




 中間試験の返却は各授業で行われるので、全ての教科が揃うまでにはだいぶ時差があった。

 今回の試験も、範囲に大きな不安要素もなく、ほどほどの準備をして臨み、飛び抜けて自信があるのは国語と英語だけといういつも通りにもほどがある出来だった。

 結果が返ってきても、琴音は今回のテストも全教科平均が八十点を越える、非常に安全な成績を取った。理華も自己最高の平均だったと言っていたので、二人は今年も何事もなく夏休みに突入できそうだ。

 肝心の岡野くんは、わざわざこちらが聞きに行かないでも、サッカー部たちが点数の話で騒いでいるのが聞こえてきて、みんなが赤点を回避したことは把握できた。

 自分の席に座ってその騒ぎをぼーっと眺めていると、渦中の岡野くんと目が合う。驚いて目を逸らそうとすると、岡野くんが大きな仕草でこちらにグッドの手を向けた。満足げな表情を見るに、余裕で赤点を回避したのだろう。

 これで一安心だね、の気持ちを込めて小さく拍手を送ると、歯を見せてニッと笑ってくれた。


「おい、岡野っ、今何してた?!」

「え、何?あいつなんかしてた?」

「なんだよ!今の!どこに向かってした?!」


「え、なんのこと?なんもしてないよ」


 岡野くんを囲んでいたサッカー部のみんなが一斉に騒ぎ始めて、岡野くんは必死にとぼけている。

 女子より噂話が好きなサッカー部が新たな噂話を掴んだら、学年全体に筒抜けと言わんばかりのスピードで広がっていく。きっと揃いも揃って口が軽いのだろう。

 もし騒がれたら岡野くんに迷惑がかかってしまうと思って、琴音も急いでトイレに逃げ込んだ。


 今、自分の頬が緩んでいるのがわかる。岡野くんの嬉しそうな顔が見られて琴音もすごく嬉しかった。胸の奥の方が暖かくて、そして、少しだけ苦しい。この気持ちの正体は、なんとなくわかるけど一旦わからないふりをする。

 ありきたりなセリフだと思うが、ラブとライクの差が、琴音にはあまりわからなかった。全くわからないわけではないが、自分の気持ちに自信がない。臆病だから、自分の気持ちに確証が持てたとしても告白できない可能性すらあった。

 実際に今までも、自分の中で芽生えたかもしれない気持ちを一回無視すると、時間の経過とともに消えていくことの方が多かった。

 だから、気のせいでも良かった。気のせいの方が良かった。


 教室に戻ると、琴音の席には理華が座っていた。


「ふむ、琴音ちゃん」


「なんでしょう、理華さん」


「私見てました」


「はあ、そうですか」


 一瞬動揺したが、毅然とした態度でスルーする。これが一番理華に効く。

 岡野くんとの小さなやりとりなんて誰にも見られていないと思っていたが、まさか理華に見られていたとは。まったく、目敏いなあ、と思わず感心してしまうほどだ。

 理華は、自分は全く恋愛に興味がないのに、友人の恋愛に口を挟むのは大好きだった。特別、噂話が好きというわけではないのに、他人の恋愛にだけは興味があるのは何故なのだろう。その脳みそがどういう仕組みになっているのか、琴音は心底興味があった。


「本当になんもないから。勉強教えたら、結果に繋がったから喜んでた。それだけ」


 一応重ねて弁明しておくと、不服そうな顔をしながら、諦めますと言わんばかりの変な声を出していた。

 普段はサバサバして他人への関心が薄いのに恋愛の話になると人一倍目を輝かせ、また、なんでもないと人一倍がっかりする理華のことを、琴音は可愛いと思っていたので、このまま放置をしておこうと思った。

 いつでも切り替えが早いので、すぐに自分の席に戻るかなと思ったら、まだ膨れっ面をして、琴音の席に座っている。


「理華ー」


 教室の後ろのドアから、理華を呼ぶ大きな声が響く。


「お、佐野くんだ」「幸樹じゃん、声でか、なに?」


 幼馴染の佐野くんの来訪に、理華の機嫌は斜めになっていく。

 佐野幸樹くんは理華と小学校からずっと一緒で、仲良く同じ中学を受験したのだと(今の理華の態度を見ると信じられないが、)思う。琴音は中一から理華と同じクラスということもあり、理華に会いにくる佐野くんとも自然と仲良くなった。

 二人は家が近所で、理華ママから伝言預かった、といった具合に佐野くんは頻繁に理華の教室を訪れていた。だが、理華が反抗期なようで、ここ最近はずっと佐野くんに冷たい態度をとっている。琴音はそれを見て、気の毒な佐野くん、とこっそり思っていた。

 佐野くんはラグビー部に所属していて、十五歳なのに大人顔負けの筋肉が魅力だ、と先日自分で言っていた。だいぶ自信家なところがあるが、ラガーマンたるものそんな態度も必要なのだろう。よくは知らないが。


「理華ママ、今日遅くなるって言ってた。パパとカレー食べててって」


「それくらい連絡入れておけばいいのに。わざわざ幸樹に伝えなくても」


「まあまあ、そんな怒んなよ」


 プリプリと音が聞こえそうな態度の理華と、それをいなす佐野くん。二人のやりとりは本当の兄妹みたいで、見ているだけでほんわかとした気持ちになる。だから、琴音は佐野くんが理華のところへ来てくれることが内心嬉しかった。


「そういえば、佐野くんは試験どうだった?」


 試験結果で沸き立つ五組に来たからには必ずされてしまう質問を、佐野くんにもお見舞いする。


「げ、そりゃこみちゃんには聞かれるか。あんまりだったよ、補習だけは免れたけど」


 こみちゃん。中一の時、初めましての日に決められた佐野くんしか呼ばない不思議なあだ名だった。


「補習じゃないなら良かったじゃん、部活行けるね」


「でも、俺英検の講座行くつもりだからどっちでもそんな変わんないんだよね」


 そうだった。

 今の今まですっかり忘れていたが、夏休みには成績が振るわない者への補習の他に、普段の授業では取り扱わない分野を集中的に教えてもらえる特別講座が開かれる。その中に英検対策の講座もあって、三月に英検を受けるつもりでいた琴音はそれに参加したいと思っていたのだった。


「わ、佐野くんありがと。申し込まなきゃいけないの忘れてた」


「おーよかった、じゃあ夏もこみちゃんに会えんだな」


 こみちゃんという特殊なあだ名を、琴音は割と気に入っていた。初めて呼ばれた時は、苗字取るんだ、と思ったが、響きが可愛らしくて好きだった。


「あ、そうだ、優斗お前さー」


 岡野くんにも用事があったようで、大きな声で岡野くんの名前を呼ぶ。佐野くんはもう琴音たちのことが見えていないみたいで、あまりの切り替えの速さに呆気に取られた。

 岡野くんと佐野くんは中一の時にクラスが一緒だったらしく、今でも話しているのをよく見かける。うちの学年は野球部とサッカー部の仲があまり良くないが、ラグビー部とサッカー部は派閥の感じとかないのかな、でも岡野くんも佐野くんも優しいタイプだからそういうのないんだろうな、と、どうでもいいことばかり気になってしまう。


「理華も、あんなにツンケンしちゃってさ。佐野くん可哀想ーっ」


「うるさいなあ、ことに言われたくないねっ」


 そんなことを言いながらケタケタと笑い合う。こういうなんでもない、理華と冗談を言って笑い合うだけの時間が好きだ。

 中一から一緒にいるけど、話題が尽きる気配もないし、沈黙も苦じゃないし、笑いのツボは合うし、理華みたいな人のことを一生モノの友達というのだと思う。

 ぼうっとしていたら、きっと夏はすぐにやってくるだろう。

 まだなんの予定もないけれど、理華とプールに行くかもしれないからダイエットでもしておこうか。まあ、ダイエットが必要な体型でもなければ、ダイエットをすると言って、成功した試しなど一度もないのだけれど。

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強くなかったみたい 山下。 @as4gr

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