第2話 道祖神の囁き
握り飯一つでは足りず、男は道祖神に供えたむすびに手を伸ばした。
竹皮がガサゴソと音を立てるが、肝心のむすびが見当たらない。
不思議に思った男が目をやると、竹皮はあるのに、むすびは消えていた。
「鼠が持ってったか? どこかに転がったか?」
男は四つ這いで道祖神の周りを探したが、見つからない。
雑草の茂みに落ちたかと諦めかけた瞬間、頭上から声がした。
「すまぬ。」
驚いた男が顔を上げると、道祖神の顔があった。口元には米粒が付いている。
「すまぬ。」再び、道祖神が言った。
「供物は供えた者が去った後にいただくのが我々のしきたりだ。だが、八十年ぶりの供物だ。最後に供えられたのは芋だった。
それ以来、誰も供物を持ってこず、俺の存在を知る者もお前以外いなくなった。お前は十年も愚痴をこぼすだけで供える気配がなかった。
それが今日、竹皮にむすびを供えてくれた。つい、食ってしまった。すまん。」
男は呆然としたが、すぐに堰を切ったように喋り始めた。
「なら、俺と代わってくれ! 握り飯なら毎日食えるから、代わってくれ! 俺はもう人間でいるのが嫌だ。十年奉公しても、店の掃除すらまともにできねえ。
今日も叱られて、店に居場所がなくて、こうやって一人で飯を食ってる。床の埃を丁寧に掃いても、他の使用人とぶつかって怒られ、
周りを見ながら掃いたら埃が舞って大目玉だ。何をやっても駄目なんだ。後生だから、俺と代わってくれ!」
男は土下座し、額を地に擦りつけて懇願した。道祖神は表情を変えずに答えた。
「それは無理だ。人に忘れられた神の端くれだが、俺はここを守ってる。悪しきものが入らぬようにな。
お前のような逃げようとする者には務まらん役目だ。だが、勝手にむすびを食った負い目がある。俺の力を一つ、お前にやろう。」
男は顔を上げ、呆けたように道祖神を見た。
「お前が人に感謝されれば、その気持ちが小判に変わり、竹皮の包みに溜まるようにしてやろう。さすれば、心も穏やかになるだろう。」
男は喜ぶどころか首を振った。
「それじゃ意味がねえ。生まれてこの方、感謝されたことなんて一度もない。人に嫌われることしかできねえ俺が、これから感謝されるはずがない。
なら、いっそ人が俺に抱く悪感情を小判に変えてくれ!」
自分の願いがどれほど愚かで身勝手かを男は分かっていた。
だが、自分の限界も知っていた。だからこそ、躊躇わず願いを込めた。道祖神は男の心情を無視し、あっさり答えた。
「よかろう。」
そして、諭すように続けた。
「人の幸せは神仏の考える幸せの外にある。何を選ぼうと、願おうと同じだ。大事なのは、どこでお前がそれに気づくかだ。
俺にとって、お前との日々は退屈な五百年で最も素晴らしい時間だった。握り飯、美味かったぞ。上手くやれよ。」
道祖神は口を閉ざし、二度と開かなかった。
男は狐につままれたように立ち尽くしたが、カラスの糞が頭に落ちると我に返り、竹皮の包みを胸に抱えて走り出した。
店を出て二刻以上が経ち、空は薄暗くなっていた。
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