第15話『語り構文交錯 ―断絶者の内声』

都市第六住区、街頭の残響が澪の耳にまとわりついていた。

 蓮華の演説から──いや、語りから──数分と経たないはずなのに、澪の内側はもう数時間、いや数日分の“語られた残響”に侵食されていた。


 ノイズキャンセルは意味をなさなかった。

 澪の黙殺構文は、都市構文からの語りを遮断するはずだった。

 なのに今、彼女は“語り鬼の構文”と、自分の構文が脳内で交錯するのを感じていた。


 目を閉じれば、蓮華の声が聞こえる。


>「語りはな。聞かせるもんじゃねえ。染み込ませるもんだよ──」

>「澪、お前も語ってるよ。気づいてないだけだ。記録ってのは……語りの器なんだよ」


「やめて」


 彼女は、声に返事をした。

 周囲に誰もいない。

 街は構文汚染の最中。

 彼女の中だけで、蓮華の語りが“語られていた”。


 脳内で言語が反響する。

 自分が発したはずの黙殺構文が、蓮華の語りに書き換えられる。

 語尾が変化する。

 主語が消える。

 記録するはずの語りが、自分自身の“記憶の語り”になっていく。


---


 耳の裏が熱い。

 幻聴──統合失調症の患者が語るような、“誰かの語りが聞こえる”という症状。

 澪は過去に語りに触れた患者を調査していた。

 その記録と、今の自分の状態が、完全に重なる。


「……幻聴じゃない。これは蓮華の語り……残響波形の誤侵入。そうであって……ほしい」


 でも違う。

 その語りは“自分の声で”蓮華の言葉を語る。

 蓮華が語っているのではない。

 澪自身が語ってしまっている。


 記録者としての自分が、感染者としての自分に書き換えられていく。

 内面の構文が、断絶ではなく、再構文化へと変化していた。


---


 澪は端末に手を伸ばした。

 断絶を実行するための、語り遮断コード。

 けれど指が震える。

 端末に表示された文字列が、蓮華型に“変換されて”いた。


>「語りを断つことが、語りを残すことになるなら。

>私は、語りを記録する器になる──」


 その言葉を、澪は記録した。

 それは、かつて彼女が語った最後の語りだった。

 今、その語りが、自分自身を語っていた。


---


 澪は叫びそうになった。

 でもできなかった。

 語れば、それが語り鬼になる。

 黙れば、それが語りの器になる。

 語り断絶者としての自分は、どこへ行った?


 彼女は、今初めて、語りと語られた者の“境界が崩れる瞬間”を体験していた。

 感染ではない。

 これは、内面から語られてしまう症状だった。

 澪の構文は崩れかけていた。


 蓮華の語り──それはもはや声ではなく、都市に染み込んだ“恨みの残響”そのものだった。

 語られなかった痛みを再構文化した蓮華の波形は、黙殺構文すら突破し、澪の心理層へ直接侵入していた。


 澪の思考は、統合失調症患者の幻聴に似た症状に陥っていた。

 蓮華の語尾が自分の記憶に重なり、断絶の構文がノイズと化し、自分が語っているのか蓮華が語っているのか分からなくなる。


 そのときだった。


>「諦めるな! 黙殺するんだろ?」


 振り返るまでもなかった。

 耳に届いたその声は、幼い頃から語りの境界線に立っていた氷室鷹芽だった。

 澪にとっては最も語られないことを許してくれた者。逃げるという語り方を尊重してくれた者。


 群衆が逃げ惑う中、氷室は語りの波形を横切るように澪へ駆け寄る。

 端末を掲げ、その画面には自作の「逃避型構文」が展開されていた。


>「澪、逃げろ。いや、違う。遮断するな、避けろ。

>語りを断つな、構文を撓ませろ。

>真正面じゃなく、語りの流れを横断するんだ。

>それが俺の術――『逃避型語り遮断構文』だ」


 澪は膝をついたまま、氷室の端末を見つめた。

 構文の形式は、断絶ではなく撓みだった。

 語りの進行方向から意識を外し、反復を回避することで感染を防ぐ設計。


 それは、澪が選ばなかった道だった。

 語りを断つことを美学とした彼女にとって、それは一度も口にできなかった語りだった。


---


 しかし、今。

 蓮華の語りに内面から侵食される最中、氷室の構文が澪の意識を横断し始めた。


 語尾が正常化する。

 思考のリズムが戻る。

 記録者としての認識が再構築される。


「……澪、今なら語られる前に、自分の語りで閉じられる」


「……語るつもりはない。記録する。

 でも、今は記録すら語られる。

 だから……ありがとう、氷室」


---


 立ち上がる澪。

 構文ノイズが徐々に沈静化する。

 都市に漂う蓮華残響型の波形が、氷室の術によって澪から隔離されていく。


 蓮華は眉をひそめ、舌打ちを漏らす。


>「澪とか言ったな……そこの女。お前、いずれ語り鬼にしてやるよ」


 捨て台詞は、残響ではなく感情そのものだった。

 憎しみでもなく、語られなかった自分への焦り。


 澪は一歩前に踏み出した。

 構文遮断端末を握り直し、記録者としての口を開いた。


>「やれるものならやるがいいさ。

>何度でも抗う。語りは、私の器に届かせない」


 凛々しいその声は、断絶ではなく“拒絶”だった。

 語りを防ぐ構文ではなく、語られることを拒む意思の声。


---


 蓮華は一度だけ澪を睨み、そして言葉を残した。


>「……お前の記録、そのうち都市が語り始めるぜ」


 そう言って、彼は煙のように残響の中に紛れていった。

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