一章〈出会い〉
第1話
目が覚めると、そこは僕の住む部屋だった。
……本当に〝目が覚めた〟と断言していいのか、僕にはもう分からない。ついさっきまで僕が眠っていたのか、それとも放心していたのか、判別できないからだ。ただ、意識というものが輪郭を取り戻して、天井を見上げているということしか確かなことは無い。
時刻を確認しようとして、壁掛け時計に視線を向ける。そこでようやく、電池を抜き取ったことを思い出した。おそらく三日ほど前、規則的に鳴り続ける秒針の音が無性に気に障って、息の根を止めた。おかげでこの部屋は、僕が発する音しか存在しない。押し殺した呼吸音、衣擦れ、頭皮を掻き毟る音……それくらいしかない。とても静かだ。
初めの頃は、音楽を聴いていれば、この抑鬱的な心情も鳴りを潜めた。四六時中、朝から晩までイヤホンを通して音の荒波を摂取していた。入浴の時もスピーカーで流すほどだった。だというのに、今では音楽も、神経を逆撫でする雑音でしかない。
入浴と言えば……最後にしたのはいつだろう。試しに自分の前髪に触れてみると、萎びたレタスのようになっていた。もう三日以上入っていないのだろう。具体的な日数を考える気力もなく、持ち上がった僕の右腕は再び掛け布団の上に落ちた。ぽすん、と間抜けた音が耳朶を打つ。
物音に敏感になったように感じる。これだけ何もなく静寂に包まれている空間で生きながらえてしまっているのだから、当然のことなのかもしれないが……僕にはその理由が違う気がしていた。きっと、一種の精神的な自傷行為に近い。症状が軽度だった頃は、音楽を聴き続けることで自分自身が発生させる物音を掻き消していたように思える。それはおそらく、物音が聞こえるということは、自分自身が存在している証左になってしまうからなのだろう。惨めで非生産的で、価値のない自分という存在がここにあるという事実から目を背けることができたのだ。——しかし今は、音楽すら雑音だと感じ、究極的に無音に近い状況を求めている。そうすることで、自分自身が発生させる物音だけが響き、それによって惨めで非生産的で無価値な自分という存在を、はっきりと知覚できる。存在を赦すことができない自分という人間を感じ取ることで、見えない自傷痕を増やしている。
思考する余力がないというのは、様々な物事への判断を鈍らせてしまう。僕はもう、善悪の判断すら億劫で、たとえ何かしらの、のっぴきならない事情があったとして、誰かを殺めた時、果たして何かを感じ取れるのだろうか……そんな風に思う。
ただ、肥大化した他人との接触への恐怖、部屋の外側への無根拠な不安は、どれだけ思考が鈍っていても消えてくれない。そんな様々な欠陥から逃げようとして、アルコールに溺れた。好きでもないのに飲み続けた。緩やかな自殺の同伴者はウィスキーだった。酩酊し、頭痛に呻き、嘔吐を繰り返す。およそ常軌を逸した飲酒だが、琥珀色の液体を体内に流し込んでいる間だけは、自分の惨めさにも、無価値さにも、悩まなくてよかった。すべてどうでもいいように思えた。だから今でも、やめられずにいる。
——そういうわけで、僕はどうしようもなく愚かだった。助かる方法も機会もあったというのに、気のせいだと決めつけ、後戻りできないところまで進んでしまった。歩いている道が落とし穴に繋がっていると理解していながら、引き返そうと考えることさえ出来ない状態へと陥るまで、自分自身を貶めた。
*
その日も、眠れずにいた。
ベッドの上で仰向けになり、目を瞑ってはみたものの、眠気は一向にやってこなかった。生憎アルコールは切らしていて、通販で注文したものが届くのは明日以降だ。……どこからが明日なのか、僕にはもう明確な線引きができないが。
こうして無為に過ごしている時、ふとこの生活がいつまで続くのだろうかと、そう考えることがある。考える余力があると前向きに捉えることも可能だが、思考の結果はいつも暗澹なものだった。だから僕は、そのうち考えることさえ忌避するようになるのだろう。この狭く冷え切った、薄暗い部屋に転がっているただの肉塊になれてしまえば、どれだけ楽だろうか。
ガリ、ガリ、と音がする。
それは僕が頭を掻き毟る音だった。
……この動作も、無意識的に繰り出されるようになった。どうしようもない現実を直視して、為す術もないというのに勝手に焦りや不安を覚え、それらの負の感情を追い出そうとする。もちろん、そんな簡単な動作ひとつで纏わりつくマイナスは消えてくれない。今ではもう、部屋の隅に掃き溜めることさえ出来なくなった。自責思考のみが僕の精神を支配していた。そうして毒を溜め込んでは、精神的な自傷を繰り返す。終わりのない地獄だ。
——不意に、息苦しくなった。
これまでの経験から、僕はすぐに状況を察する。
呼吸という普段何気なく繰り返している行動を、再度意識して行うようにすると、自然に行うことができなくなる。……きっと僕は、無意識に息を殺していたのだろう。そして呼吸という行動に意識を向けすぎた(あるいは思考する余地を脳味噌に与えないために、自然とそうしたのかもしれない)から、息を吸って吐くという動作さえ満足にできなくなったのだと。
こうなってしまうと、僕がどう感じて何を思っていても、体が否応なく、反射的に動く。何かを振り切ろうとするように慌てて立ち上がり、千鳥足になりながら洗面台に向かう。蛇口のレバーを力任せに……と言っても、過呼吸に近い状態なので大した力も入らないが、とにかく下へ倒し、勢いよく流れ出る水を喉へと流し込む。そうすることで呼吸が完全に停止し、リセットされるということを学んだ。
「————ッはっ」
大粒の汗と水撥ねに塗れた顔が鏡に反射し、暗闇に浮かび上がる。
……僕はこんな顔だったろうか?
隈が酷く、まるで練り込まれているかのような不自然さで目元に佇んでいる。
頬はやつれて、顎骨の気配が犇々と漂っている。
鏡を前にする度に、何度も思う。本来の僕がどのような顔をしていて、どのような表情を浮かべていたのか。それらの記憶が、霧の中に浮かぶ灯りのように、不確かで霞んだものになってしまった。
とにかくそういうことで、僕は普段通りの地獄にいて、呼吸さえままならない空間で、ただ呼吸をする肉塊を夢見ていた。絶望の向こうに広がる、一面の空虚に、ひとり蹲って居た。
そして運命というものは、人々を嘲笑うかの如く、突然顔を覗かせる——
——予兆無く、音が響いた。
それは、インターホンの音だった。
それがどれだけ異常なことなのか、僕だけは理解していた。何も時間帯が訪問に適していないだとか、そういう話じゃない。友人など一人もいない、宅配便さえ置き場所指定の配達という方法を取っている程、人との関わりを断っている僕の部屋に、インターホンの音色が響いているのだ。
一度、二度鳴らした後、扉の向こうにいるであろう人物からの反応は途絶えた。
……一体誰だ? 何の目的で?
そんな疑問が浮かび上がるも、扉へ向かおうとする意志は、すぐさま恐怖と不安に上書きされる。扉を開ければ外側の世界と繋がってしまう、そこには素性も知れない謎の人物が何かしらの目的を持って僕に近づこうとしている——そう囁き続ける声が、段々と強くなっていく。
それでも。
僕は直感した。——この扉を今、開けなければならない。
出所不明の、天啓のような何かを軸に、僕の脚は再び動き始める。纏まらない思考は煩雑な物事を考え続けていて、抗い難い恐怖と不安を助長させる。口の中が尋常でない速度で渇いていく。呼吸が荒くなる。眩暈がする。それでも……それでも、僕は這う這うの体で玄関扉の前まで辿り着いた。
繋ぎっぱなしのチェーンロックを握り締め、冷や汗を拭い、ドアスコープを覗く。
——そこには、一人の少女がいた。
身長は僕よりいくらか低い程度、漆のように綺麗な黒髪は肩の高さで綺麗に切り揃えられている。整った顔立ちは、まるで人形のように完璧な比率を有しているのではないかと思わされる。そして何より……華奢で細い体を強調するよかのように、どこかの学校の制服を身にまとっていた。
唖然とその姿を小さな窓から見ていると、視線を気取ったとでもいうのか、俯いていた顔を上げて、こちらを見た。
目が合う。
吸い込まれるような、黒くて澄んだ、磨かれた瑪瑙に似た瞳。
まるで、全てを見透かしているかのような——
「——ッ」
怖気を感じ、後ろに倒れ込む。全体重を受け、錆びていたチェーンロックが、耳障りな音を立てて千切れる。そこでようやく、扉の鍵を掛けていないことに気付いたが、全てが手遅れだ。『身動きを取る』という判断を下す暇もなく、扉が開かれた。
外界の空気が流れ込んでくる。
酷く肌を刺す冷えた空気に思えた。
脳の裏を鋭く、何かが過ぎった。
中途半端に開いたその隙間から、ひょいと顔を出し、少女は言った。
耳鳴りと嘔吐感の奔流の中、僕は確かに聞き取った。
「こんばんは。——戸村祐二さん」
見ず知らずの少女が、
僕の名を口にする瞬間を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます