第2話



 三十分が経過した。


 その間、僕は玄関の框に蹲っていた。視界には僕の靴の他にもう一足、ローファーが置かれている。信じがたい光景に目を擦るが、増えた一足が消えることは無い。


 件の少女は、我が物顔で部屋に上がり、寛いでいる。初めは部屋を物色していたが、この空間に物色するほどの物すらないと気付いたのか、以降はベッドの上に寝転がり、スマホの画面をスワイプしている。


 僕はと言えば、あまりに唐突な展開に脳味噌の処理が追い付いていなかった。ただ呆気にとられ、時間を掛けて現状を理解し、自分以外の人間がこの部屋にいるという恐怖に駆られて、結果的に身動きすらまともにできなくなっていた。……素性の知らない人間が部屋にいれば誰だって恐怖を抱くだろうが、外出への不安感や視線恐怖という欠陥を抱えている僕にとっては殊更厳しい。


「祐二さん。床、冷たくない?」


 少女が僕に問う。


「あ、え……な、あ」


 何を言えばいいのかも、何から言及すべきかも分からず……あるいは他人との会話の仕方を思い出すことができず、意味を持たない文字が口から漏れる。ぎこちなく言葉に詰まる僕の態度を見て、けれど少女は茶化すことも気味悪がることもなく、ただ相好を崩した。


「落ち着いてよ……って、祐二さんには難しいか」


 湖面に映る月を覗くような、そういう瞳。

 まるで、全てがお見通しとでも言うかのようで。


 底知れぬ怖気に身を震わせた僕に、少女は立ち上がりゆっくりと近づいてくる。フローリングに接地する足音は、罅割れた空気を連想させるものだった。一歩、また一歩距離が縮んでいく。俯いたまま微動だに出来ない僕のすぐ近くまで来て、少女の爪先が僕の背中に触れてしまう寸でのところで、止まった。


 そして——強烈な引力が僕を襲う。

 少女は、僕の右腕を強引に掴み、そのまま引いた。


「——ッ」


 突然のことに、僕は反射的に振り向いた。

 超然とした黒が、僕を射止める。


 まるで、時が止まったように感じた。周囲の色彩が欠け、少女の顔に浮かぶその二つの星空だけが色を帯びていた。その輝きを、その深遠を、僕は確かに感じ取った。きっと、現実の星空なんかより、何倍も、何十倍も綺麗だと、そう感じた。


 思い切り引っ張り上げられた反動で、少女に抱き留められる形で立ち上がることとなった。そのことに羞恥や躊躇いなど無く、ただ純粋に、圧倒されていた。


「だいじょぶ?」


 少女が問う。


「あ、あぁ」


 辛うじて絞り出した声は、何とも弱々しかった。蚊の鳴く声のお手本だった。そんな僕の様子を見て、少女は楽しそうに声を上げ、相好を崩した。




 ——その後、僕は言われるままに水道水で喉を潤し、目を瞑って深呼吸をし、フローリングに座って気分を落ち着かせた。対面には、僕のベッドに腰掛けてこちらを見ている少女がいる。なぜ僕の部屋だというのに自分が床に座っているのだろう、と疑問が生じかけた時、鈴の音のように優しく琴線を撫でる声が、僕に向けられた。


「何か言いたいことがあるって感じだね」


 それは、その通りだ。むしろ訊きたいことしかない。

 だが、核心的な疑問を投げかけることを躊躇った僕は、軽口で応える。


「……なんで僕が床に座らなくちゃいけないんだ」


「あははっ、確かに。交代する?」


「いや、いいよ……」


 頭ごなしに思いついた軽口が終わり、再び沈黙が降りる。


 このまま向かい合っていても埒が明かないので、覚悟を固めて核心を突く疑問を怒涛の勢いで投げつけた。


「キミは一体、誰なんだ? なぜ僕の名前を知っている? 何が目的なんだ? 僕の何を知っているっていうんだ?」


 どうどう、と僕を宥めつつ、少女は口を開いた。


「どこから話そっかなぁ。…………じゃあ、まず名前から」


 可愛らしく右手で自分自身を指差す。


「名前はハルカ。年齢は——まぁ、重要じゃないか。見ての通り学生だよ」


「こんな時間に出歩いてちゃいけないだろう」


「出歩いてないじゃん、少なくとも今は」


 揚げ足を取って来る。


「それから……わたしは、貴方を救うためにここへ来たの」


 鷹揚と——少なくとも僕にはそう見える笑みを浮かべる。


「どういう意味だ?」


 少しズレた答えが返ってくる。


「ほら、よく言うでしょ? 世界の終焉を前にして、救いの天使が現れるって」


 少女——ハルカだったか——が言いたいのは、ヨハネの黙示録のことだろうか。確かに、僕を救わんとする(あくまでそう宣言しているだけだが)天使が、インターホンという鐘の音を鳴らしてやって来たのだ。言い得て妙なシチュエーションだ。


 ハルカは続ける。


「名前を知っていた理由は……まぁ、些細な事だよ。だって……」


 些細な事であってたまるか——そう言い返そうとした僕の口は、その後に告げられた言葉によって塞がれることとなる。




「ちょうど一年前の六月、貴方は何事も億劫に感じ始めた。炊事、洗濯、入浴、外出……その全てが、妙に気だるく体力を奪われるものに変化した。それから人に会う機会も減って、時間だけを浪費して、徐々に心を擦り減らす。十二月に差し掛かる頃には、人からの視線に対して恐怖を感じ、被害妄想さえ抱くことになった。そうなれば必然的に、大学には行けなくなる。後期の単位を全て溝に捨て、この部屋に籠って暮らし始める。……それからは症状が悪化するばかりで、焦燥感に駆られて、一時的にでも楽になりたいとお酒に頼り始めて、結果はこの有様——」




 つらつらと、事実を……いや、真実を羅列していく。


 傍で見てきたかのように、ハッキリと、寸分の狂いもなく、僕の荒み具合を言い当てた。


 気味が悪くなった。


 どこの誰とも知れない、ただの少女が、


 なぜ、僕の人生を知っているんだ。


 ——本能的に危険を察知し、体が動く。


 この少女を、ハルカを、この部屋から排除しなくてはならない。


 自分でも訳が分からないほどの脚力で立ち上がり、距離を詰めて、彼女の首元を両手で押さえる。僕と彼女の間にあった折り畳み式のテーブルが倒れ、けたたましい異音を残す。ぼすん、と音を立てハルカの体がベッドに横たわり、その上に僕が覆い被さる。瞼を固く閉じ、食事さえまともに摂れずにいたこの体の、どこにこれほどの力が隠されていたのだろうと、そう思わされる握力を発揮して、彼女の首を絞め続ける——。


 …………どれくらい経ってからだろう、違和感に気付いたのは。


 ふと、何かが欠けているように感じた。何か大切な——この状況において無くてはならないものが、悉く欠如していると。


 その正体が、瞼を開けたことで露呈する。


 ……抵抗だ。


 僕の目の前で首を絞められ続けている彼女には、初めから抵抗という行為がなかった。


 肌に触るのは確かに柔らかく生暖かい人肌で、拍動もはっきりと感じられる。だというのに、まるで人形の首を絞めているかのように、微動だにしたい。


 眼前には、やはり超然とした黒が浮かんでいた。


 真っ直ぐに、僕の瞳を覗き込んでいる。


 そして彼女の表情は……優越感に似た何かを隠した、薄ら笑いだった。


 窒息しているはずだというのに、喉が動き、声を発する。


「満足した? 祐二さん」


「ひっ——」


 情けない声を漏らし、ハルカの首を絞めていた手を退かして、後ろに倒れ尻餅をつく。お手本のような驚愕に、上半身を起こした彼女が楽し気に相好を崩す。


「あははっ、驚きすぎ」


 先程までの殺人未遂など、初めから無かったかのように彼女は振る舞う。数分前と同じ体勢で、脚を少し揺らしてこちらを見ている。変わったものは、倒れた折り畳み式のテーブルと、僕の心情と態度だけだろう。


 ……あり得ない。あり得ていいはずがない。


 成人男性の本気の握力で、情け容赦なく首を絞めたのだ。それに、少なくとも体感で数分はそうしていた。だというのに、ハルカは顔色を一切変えることなく、抵抗すらしないで平然としている。首元には圧迫痕の欠片も見当たらない。


 何かがおかしい。いや、何もかもおかしい。


 狂っている。


「言ったでしょ? 『救いの天使』だって」


 ——この時僕は、ひとつの感情に翻弄された。


 出自の分からない、見ず知らずの少女で、僕のあらゆることを知り尽くしている危険で不気味な少女。つい先程、首を絞めて殺そうとまでした、その少女を。


 僕は図らずも、美しいと感じた。


 白くキメの細かい肌、漆のように黒く整った髪、夜空のように確かな輝きを内包した瑪瑙の瞳、薄くも存在感を放つ唇……その他彼女を構成するすべての要素が織り成す、可憐な笑み。


 まるで、天使だと思った。


 途方もなく美しいと、そう感じた。


 心臓の拍動が加速する。それが圧倒的な美の前に起きたある種の興奮なのか、未だ抜けきらない恐怖の残滓なのか、判別できない。


 それでも僕は、ひとつだけ確信していた。


 たとえ、対面にいる彼女に対して恐怖を感じていても、それをも凌駕する恍惚が、僕の内側に熾きたのだと。


 ……そうだ。


 きっと生まれて初めての、恋だった。


 天使のように美しい笑みを浮かべる、正体不明の少女。


 それが、僕の初恋の相手になった。



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