天使は僕の部屋に、そして向日葵畑の中心に。

春斗瀬

プロローグ

プロローグ



 初めは気のせいだと高を括っていた。

 しかし、それは確実に病であって、僕の心を侵食していた。


 平凡な偏差値の、平凡な高校を卒業後、平凡な偏差値の、平凡な大学に進学した。夢もなく、これといった趣味もなく、部屋の中は家具や生活必需品を除けば、伽藍洞そのものだった。その気になれば、何でも詰め込めてしまうその空白に、僕はきっとマイナスを掃き溜めた。


 不安、恐怖、混乱、倒錯、憤懣、寂寥、自責、忌避、そして小さな絶望の数々。家族関係が希薄で友人すらまともにいない僕は、それらをどうするべきなのか皆目見当もつかず、呼気と一緒に部屋の隅へと追いやった。


 空気中に拡散した毒は、僕の住む部屋に漂い続ける。僕が部屋に帰って来る度、少しずつ心を侵食してく。気付けばもう、手遅れだった。


 心が『崩れる』感覚を知っているだろうか。……もちろん心に崩すことのできる形は存在しないが、僕は『崩れる』感覚を確かに認めた。色も形もなく、輪郭すらない心が、水に浸けたティッシュペーパーのように、千切れ散らばり、崩れていった。少しずつゆっくりと、時間を掛けて。


 人に会うことが億劫になり、部屋に籠る時間が増えた。必要最低限の外出だけに留め、何をするでもなく部屋の中で日々を浪費した。

 やがて他人の視線が気になり始め、顔を見て話すことができなくなり、『誰もが自分の陰口を言っている』という妄想に憑りつかれた。


 そんな状態で外出などできるはずもなく、講義はすべて欠席した。人間と接触することに過剰な恐怖を覚え、部屋の外側に広がる世界に対して無根拠な不安を感じるようになった。そしてついには、眠れなくなった。


 それだけの異常が起きていながら、果たして僕は何もできなかった。外出さえままならず、日々のあらゆる隙間に恐怖と不安が蔓延っている状態で精神科を受診するなど、土台無理なことだった。


 無為に過ぎる時間に、焦りだけは一人前に感じていた。それが余計に心を蝕む。諦めて縊死ができれば救いはあったかもしれないが、生憎行動に移す気力も、度胸もなかった。散らかる物すらないこの部屋のように、僕の心は空っぽだった。


 幸いなことに……いや、不幸なことに、実家は裕福で仕送りも十分すぎるほど毎月口座に振り込まれていた。一日一食すらできない日があり、部屋の明かりも点けずに生きている、底生生物のような僕にとっては、何もせずとも生きていけてしまう額が、預金通帳に表示されていた。僕は……どうしようもなく、家族に生かされてしまっていた。




 そんな日々の中、僕は一人の少女と出会い、恋に落ちた。

 甘く、切なく、身悶えするような〝初恋〟だった。

 曖昧で、奇妙で、欠陥ばかりの日々に、確かにその感情は存在していた。

 

 間違いなく、それは恋だった。

 それ以外の何物でもなかった。



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