第8話 沈黙のざまぁ

教室の片隅、川合咲は静かにペンを走らせていた。窓から差す午後の光が、彼女の机をやさしく照らしている。描いているのは自分だけの世界。誰にも踏み荒らされることのない、紙の上の密やかな王国だった。咲にとってそれは、言葉にできない痛みや孤独を閉じ込める、唯一の聖域だった。


だが、世界の外側では無神経な声がその静寂を乱していた。


「なあ見た?あいつ、また一人で漫画描いてるらしいぜ」

「気持ちわる。友達いねーのかよ」


笑い声が教室の空気に広がる。その中心にいるのは、柴田。自信過剰と悪意を履き違えた笑顔をまとい、取り巻きを引き連れて騒ぐその姿は、まるで餌場を荒らすカラスのようだった。


咲は顔を上げない。ペン先に全神経を集中させている。だが、紙の上に描く線がかすかに揺れていた。彼女は震えていた。恐怖ではない。怒りだった。

言葉を持たない怒り。

それを彼女は、自分の奥底にあるチート能力で表現することを選んだ。


無音の屁。音を完全に消し去る、咲だけが持つステルス能力。

だが最大の武器は、匂いである。


咲は腹に力を込めた。

一発目、何も変わらぬかのように見える空気が、静かに揺らぐ。

鼻をひくつかせた柴田が眉をひそめた。


「ん……? なんか臭くね?」


二発目。数人が顔をしかめ、窓の方を振り返った。誰かが呟く。「柴田の席、やばくね?」


三発目は決定打だった。教室中がざわめき、視線が一斉に柴田を射抜く。


「ちょっと柴田、信じられないんだけど」

「おまえさ、屁こいたら謝るのがマナーだろ?」


「ち、違うって!マジで俺じゃねーし!」

「昨日ニンニク食ったろ?くっさ……!」


疑念と空気の濁りが柴田を包囲する。逃げ場を失った彼は窓際へ向かい、叫んだ。

「換気するから!ほんと、勘弁してくれよ!」


そのときだった。

彼の足がもつれ、体がぐらりと傾く。

二階の教室、そのまま外へ落ちそうになる。


誰もが凍りついた瞬間、

咲だけが走り、その腕をしっかりと掴んだ。


「……柴田くん、お腹大丈夫?」


その声は小さく、けれど確かに響いた。

柴田は、無言のまま教室に引き上げられた。


咲が助けた。

その事実が、何よりも空気を変えた。


「川合……ありがと」


それは小さな声だったが、教室中がはっきりと聞いた。拍手が起こった。咲は少し照れくさそうに微笑むと、また自分の席に戻った。


だが。


「てか……まだ臭くね?」

「柴田、さっきから屁こきっぱじゃん」

「もうやめろって……マジで俺じゃねーんだよ!」


咲は何食わぬ顔で、

なおも静かに攻撃を重ねた。

サイレントアタック。

それは無音で無慈悲な、沈黙の裁き。


柴田の鼻孔は限界を超え、

言い訳は意味を失った。

屁は見えず、聞こえず、しかし、匂った。

その臭気だけが、彼の尊厳を一枚ずつ剥がしていった。


「……くせえ、マジで……」

柴田は机に突っ伏し、もはや誰とも目を合わせられなかった。


もう誰一人として、咲を咎める者はいなかった。


咲はただ、インクの線を紙の上に伸ばしていく。その線はもう、震えていなかった。


彼女の放つ沈黙のざまぁは、

教室の空気に、音もなく沁みわたっていった。

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