第7話 沈黙の田町
通勤電車、朝7時43分。
山手線、内回り。
車内はすでに、限界を超えていた。
人も、空気も、そして尊厳も。
酸素は足りず、呼吸のたびに、
他人の体温と劣等感を肺に吸い込んでいるようだった。
だが、沈黙だけはやけに濃い。
濃密で、張りつめて、割れる寸前の静寂。
咲は、肛門にすべての神経を集中していた。
今そこに、小さな爆発物がある。
しかも、ほぼ点火済みだ。
(これは……鳴るやつだ)
(鳴らせば終わる。人間として、終わる)
腸の奥からじわじわと押し寄せる、ガス。
強い。丸い。形がある。
そして、意思がある。
脱出を望んでいる。
独立宣言を出そうとしている。
だが、まだ出すわけにはいかない。
この密度。
単独で鳴らすなど――それは社会的自死だ。
幸い、電車は雑音が多い。
アナウンス、モーター音、ブレーキの軋み。
そのどれかに重ねれば、消えるかもしれない。
ばれなければ、屁ではない。
「つぎは〜……」
きた。アナウンス。
この音の幕に合わせて――今しかない。
「……田町〜」
ぷっ。
出た。
だが、同時に、車内のあちこちから――
「田町」
ブリッ。
「下り口は右側です〜」
プッ。
一瞬で、電車がリズム隊と化した。
(これは……演奏?)
アナウンスに合わせ、
屁がリズムを刻む。
雑音がハーモニーになり、
音と無音が、奇妙な合奏を始めていた。
これはもう、音楽だった。
屁とアナウンスの前衛芸術。
予定調和を持たぬ、フリージャズ。
誰が主旋律で、誰が伴奏かも分からない。
だが確かに、全員が共演者だった。
咲は、目を閉じた。
ほんの少しの安堵。
ゆるむ筋肉。
深い吐息。
その瞬間。
ブッ。
しまった。
これは――ソロだ。
誰の音とも重ならなかった。
アナウンスにも、他人の屁にも。
伴奏は終わっていた。
咲の音だけが、車内にぽつんと残された。
(終わった……)
音は咲を離れ、漂う。
誰が出したか、
明らかにわかる距離とタイミング。
沈黙が戻ってきて、咲の背中に絡みつく。
そして、追い討ちが来た。
臭い。
それも、強烈。
熱を帯びた焦げた卵――
あるいは、温泉地の硫黄。
しかも、音がない。
(ちがう……! これは私じゃない……!)
そのとき、背後の誰かがマスクの位置を直し、
目を細めて、周囲を見回した。
犯人探しの目だ。
(私は音を出しただけ。
この無音の毒――これは別人だ。
ヘロリストがいる……!)
だが、言い訳はできない。
臭いはすでに、咲の音と一体化していた。
音と無音。
軽さと重さ。
罪と誤解。
田町は近い。が、逃げ場はない。
咲の膝がわずかに震えるそのとき、
右隣の男が、ふいに身を傾けた。
スーツに身を包んだ、肩幅の広いサラリーマン。
静かに、しかし誇らしげに一撃を放った。
ブッ。
短く、潔く、見事な音。
そして、深く頭を下げて言った。
「……失礼しました」
その瞬間、車内がわずかにゆるんだ。
困惑、安堵、連帯感。
咲は思わず、男の横顔を見た。
その表情は堂々としていた。
まるで、屁に責任を持つことを美徳とする民族の勇者のようだった。
ドアが開く。
田町。
都会の風が、咲の頬を撫でた。
肺に満ちる酸素に、
咲は清らかさを感じた。
沈黙を破って、
人を赦した屁の音。
それは、忘れられない音だった。
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