第9話 3年B組 沈黙先生
柴田重義は荒れていた。
しかし、それは教室を騒がすような喧騒でも、教師に噛みつくような反抗では無かった。
バイクを盗む度胸はなかったし、免許すら無い。熱い缶コーヒーは飲めない猫舌であり、
ただ、大人達を睨むだけであった。
彼は「沈黙」を貫いて過ごしていた。
それが柴田の美学であり美徳である。
前髪のセットに1時間半。
夜明け前からアイロンを当て、ひとすじの逆立ちにすべてを込める。
それが、彼の「生きざま」。
肩パッド入りの短ランの裏地は真紅のサテンに貼り替えられ「地元じゃ負け知らず」の刺繍が入る。それは、彼自身の「名刺」であり「肩書き」だった。
柴田は誰よりも早く学校に来た。
用務員さんが正門を開けるときには、すでにそこにいた。
帰りもまた、誰よりも早く姿を消す。
放課後のざわめきには、彼の気配はない。
ある日、柴田は、ヤンキー雑誌『チャンプロード』の表紙に立った。その一枚のスナップは、教室をざわつかせ、職員室を緊張させた。
だが、その日もまた、誰も柴田に話しかけなかった。生徒も教師も、彼を「取り扱わない」ことで均衡を保っていた。
生徒も教師も、柴田を恐れた。
柴田を取り巻く沈黙は、理解ではなく、境界線である。彼の半径三メートルには、声が届かない。まるで見えない防音ガラスで囲われているようだった。
3年B組の教室で、一番後ろの窓際が彼の定位置。肩肘をつき、頬杖をつき、WALKMANからは「翼の折れたエンジェル」がこぼれていた。
校舎の風に紛れて、彼の孤独だけが浮かび上がった。
柴田は、「放っておかれること」に慣れていた。リーゼント、無口、眉間の皺。腫れ物のように扱われるのは、嫌ではなかった。むしろ、都合がよかった。近づかれず、問い詰められず、自分の距離を守れる。
しかし、あの日だけは、少しだけ違った。
屁をこいたのだ。派手に。気づかれないわけがない音量。音も、匂いも、確かにあった。
腐った卵のような匂いが教室を包んだ。
だが、誰も何も言わなかった。まるで、風景の一部のように、なかったことにされた。
──沈黙が、重くのしかかるのを感じた。
空気が凍りついたとき、
新米教師の河合咲が、ゆっくりと立ち上がった。チョークを手に持ち、黒板に「沈黙」とだけ書いた。
「……沈黙って、優しさだと思う人?」
咲の声は静かだったが、芯があった。
誰も手を挙げない。
「沈黙は、時に優しさになります。でもね――それが、なかったことにするための沈黙だったら、どう思う?」
生徒達は、目を伏せた。
「黙という字、右に犬が入っているの、知ってる?」
咲は、黒板を軽く叩いた。
「犬は忠実な生き物。吠えることもできる。だけど、黙っていう字の中では、言葉の部分が黒く塗りつぶされてる。つまり、『声を消された忠実』なんです。」
柴田の背中がわずかに揺れた。
咲の言葉が、彼を囲うガラスの膜を、指でそっとなぞったようだった。
咲は続けた。
「私たちは時々、沈黙という名の遠ざけ方で、人を孤独にします。声をかけないことで、関わらないことを選ぶ。でもそれは、やさしさと見せかけた放置かもしれない」
──やさしさの仮面をかぶった放置。
その言葉が、柴田の中で何かを削った。
柴田は気づいていた。
本当は、かまってほしかった。
心配してほしくて、目立ちたくて、格好つけていた。だが、努力の方向を間違えていた。気づいた時にはK点を超え、もう戻れない場所に着地していた。
咲がポツンと言った。
「今日のお昼ごはん、食べすぎちゃって……私、おなら出ちゃった。」
一瞬、クラスが沈黙する。
次の瞬間、数人が吹き出した。
「先生マジかよ」
「やべーな」
柴田も、声を出して笑った。
それを見た工藤まさるが、意を決して言った。
「さっきのおなら、柴田でしょ?」
柴田は顔を真っ赤にし、
小さな声で「押忍」と返した。
教室の空気が、ほんの一拍、揺れた。
真鍋は肩を震わせ、工藤は堪えきれずに笑い崩れた。
沈黙が、破られたのではない。
沈黙の向こうに、はじめて声が届いた。
ほんとうの意味で、通じ合ったのだ。
「誰かのせい」にしない。
「なかったこと」にしない。
けれど、「責める」わけでもない。
それが、赦すということだった。
柴田は、自分の中の美学が少しだけ変わったことに気づいていた。
「格好いい」ことは、誰も寄せつけないことじゃない。
誰かに笑われても、笑い返せること。
それは、強さだった。
自分の失敗も、他人の失敗も、
「まあ、いいか」と受け入れること。
それは、生きる姿勢だ。
その日、柴田は放課後のざわめきの中に、はじめて残った。
いつもなら姿を消す時間に、彼はまだ教室にいた。その沈黙はもう、境界線ではなかった。
ひとつの余白として、誰かが入ってくるのを、待っていた。
工藤が、
「一緒に帰ろうぜ」と声を掛ける。
誰かと共に生きるということは、
完璧であることじゃない。
ときに間抜けでも、恥ずかしくても、
それを笑い合える関係の中に、自分を置くということ。
それは、勇気がいる。
でもその勇気こそが、信頼や友情の入り口になる。
だから、今日も、笑おう。
全てをやさしく受け止め、赦しあいながら。
沈黙の向こうには、いつだって声がある。
その声に耳を澄ませるかどうかは──
自分次第だ。
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