第17話

夏休みが明けて、二学期が始まった。

校舎には久しぶりに再会した生徒たちの笑い声が戻り、まだ夏の空気を引きずったような蒸し暑さが教室を包んでいた。


だが、陽翔にとっては、思っていたほど“戻った”感覚はなかった。


「夏休みが終われば、また元に戻る」


そんな風に期待していたはずなのに、夏葵はどこか距離があって――しかも、

最近は雅貴とよく一緒にいる姿が目につくようになっていた。


別に、特別仲良かったわけじゃないだろ、あのふたり。

そう言い聞かせても、心の奥底がざわざわする。

声をかけたくても、タイミングが掴めない。

手を伸ばしたときには、もう誰かと笑っている夏葵がいて、踏み込めずに引っ込める日々だった。


結果的に、陽翔は他のクラスメイトと連むようになっていた。


そんなある放課後。


いつもより教室の空気が静かだった。

部活の声が遠くに聞こえる中、雅貴は夏葵の腕を引き留めた。


「……夏葵。聞きたいことがある」


「ん?」


夏葵は気だるげに振り返る。

けれどその目は、わずかに警戒していた。


「夏休みさ、突然来なくなったろ?公園。……心配したよ」


そう言いながら笑う夏葵は、あの日の言い合いをなかったことにしようとしているように見えた。

けれど、雅貴は笑わなかった。

真顔のまま、まっすぐに夏葵を見据えて、問いかけた。


「お前には……俺の母親の行動が、愛に基づくものだと思うか?」


夏葵は面食らった顔をした。


「は? ……なに突然。どういう意味?」


雅貴はゆっくりと言った。


「前に言ってきただろ、俺は母親に愛されてるって。……でもな、俺にはどうしてもそうは思えないんだよ」


夏葵の眉がぴくりと動く。


「そんなの……知らないよ。何が言いたいの?」


投げ捨てるような夏葵の言葉に、雅貴は一瞬口を閉じ、そして静かに呟いた。


「……俺にも分からない。……ごめん」


背を向けようとする雅貴に、夏葵がぽつりと声を落とす。


「俺は、羨ましかったよ」


雅貴の足が止まる。


「鬱陶しいくらい連絡が来るのも、卒業式に親が来てくれるのも、毎日お弁当があるのも、全部――俺がどう願っても手に入らないものだったから。羨ましくて仕方なかった」


その声に、雅貴は振り返る。


夏葵の目には光がなかった。

深くて、冷たい黒が広がる瞳――まるで、底なしの湖のようだった。


その一瞬、雅貴は少しだけ、夏葵が怖くなった。

ずっと一緒に笑ってきたのに、

今まで隣にいたはずなのに、

こいつの考えてきたこと、全部わかんねえ。


けれど。


雅貴の中に溜まっていたものが、堰を切ったように溢れた。


「俺は……俺は、楽しそうにお母さんと話せるお前が羨ましかった!」


涙がこぼれる。


「信頼されて、一人の人間として扱われてるお前が、ずっとずっと羨ましかったんだ……!」


顔を歪めて、しゃくりあげながら言葉を吐き出す。


「ずるいよ……なんでお前ばっかり、って、俺も……俺だって……!」


気づけば、夏葵も泣いていた。


「じゃあなんなんだよ、それ!お前だってずるいよ、ずっと黙って……!俺ばっかり、俺だって……!」


まるで子どもの喧嘩のように、泣きながら、叫びながら、髪を引っ張り合った。

「うるせー!」「お前がうるせえ!」

「黙れよバーカ!」「お前がバカだろ!」


ずるい、俺ばっかり。

俺だって、俺だって。

涙でぐしゃぐしゃになりながら、

お互いの髪をわしゃわしゃにし合って、引きずるように転げ回った。


やがて、泣き疲れて、騒ぎ疲れて。

ふたりともぐったりと黙った。


教室の隅、夏の日の残り香がまだ残っているような空気の中、

声が掠れて、呼吸だけが聞こえていた。


ふたりとも、誰かとこんな喧嘩をしたことはなかった。

ましてや、泣きながら髪を掴み合って叫ぶなんて――

きっと、生まれて初めてだった。


夏葵は、母親と「話す」ことすらまともにできた記憶がほとんどなかった。

あの人はいつも疲れていたし、言葉を交わせるような距離にいなかった。

たまに会話らしい会話をしたとしても、言い争えば壊れてしまいそうな、そんなぎりぎりの親子関係だった。

だから本気でぶつかることが、どこか“許されない”ことのように感じていた。


雅貴は、ずっと言いたいことを飲み込んできた。

親にも先生にも、逆らわず、空気を読みながらやり過ごすのが当たり前だった。

怒りをぶつけても、泣いても、何も変わらないと、心のどこかで決めつけていた。

だから、今日みたいに誰かに本気でぶつかって、泣きながら怒鳴ったのは、

本当に初めてのことだった。


教室の空気がようやく落ち着きを取り戻した頃、

先に立ち上がったのは雅貴だった。


汗と涙でくしゃくしゃになった顔のまま、無言で夏葵に手を差し伸べる。


夏葵はその手を無言で掴み、ふらりと立ち上がる。


「……喉、乾いた」


「……アイス食わね?」


ぽつりとそう言う雅貴に、夏葵はふてぶてしく返した。


「お前の奢りだからな」


その瞬間、ふたりの顔に、ふっと笑みが戻った。


喉は痛くて、鼻も詰まって、目は真っ赤だけど、

どこか、心のど真ん中に風が通ったような、そんな気分だった。


陽翔は知らなかった。

二人がそんなやりとりを交わしたことを。


陽翔はただ、思っていた。

「二学期になればまた、元通りに戻れる」って。


けれど夏葵は、今は雅貴と話していることが多かった。

自分が声をかけようとしても、そこに雅貴がいて、入りづらくなってしまう。


何度かタイミングを見て手を伸ばしたけれど、

「今じゃないかも」と思って引っ込めた。


――気づけば、自分もまた、クラスメイトの輪に自然と吸い寄せられるようになっていた。


気楽で、適当で、冗談が通じる連中。

でも、何かがずっと足りなかった。


陽翔は、それでも夏葵を見ていた。

「また、きっと戻れる」と願いながら。


だけど、その背中は誰かの隣で、静かに笑っている。


そして、夏の音はもう、遠くでしか聞こえなかった。

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